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ひらめきの月曜日
 
お寺で一人かるた

だんだん子供の頃の自分とリンクしてきた・・

黙々と一人かるたをしていると、みるみる思考がクリアになっていくではないか。落ち着いて自分と対峙する波に乗ったようだ。

ふと、セーラーと同年代の自分が頭をよぎることに気づいた。

なんだこれは。「思い出がいっぱい」というより、「思い出がくっきり」と言った方がよいかもしれない。耳に学校のチャイムが響いてくるような感覚。

そういえば、セーラーと同じ11歳の時、ミンチン先生にそっくりの先生がいたっけ。

頭に血が上ると、気にくわない児童を張り手で叩きながら教室の外に追い出そうとしたっけ。


あ!この光景に見覚えがあるよ

本当に出て行こうとする子がいると、実際それはまずいと焦るのか、「そこから一歩でも出たら先生はお前に対する信用を永遠になくす」と言うのだ。子供ながらに不条理だと思った記憶がある。

自分の過去の記憶と重なって見える事から想いはふくらみ、静かに自分と向き合ってしまっている。自分とは何か。自分の歩いてきた道とはどのようなものだったか。

どっぷりとインナーワールドに迷い込む。これがお寺とセーラーのパワーなのか。



さすがにこんなおしんのような体験はないが、上記のような不条理先生に怒られたやり場のない悶々とした思いで泣き寝入りをすることはあった。

「ほら、そんな事で泣いていたおまえは全然甘いぞ。セーラーはもっとやりきれない悲劇の渦中にいたのだ。セーラーのような強さは、悲しみから生まれるものなのだ」
頭の中で声が聞こえたような気がする。

目から鱗が落ちた。20年も遅いですが。


さすがにこの経験はないが、
この経験はある

 

どうでもいい記憶までよみがえる

11歳の時、自宅の屋根に穴があき雨漏りがはじまった。

父と屋根にのぼり、ガムテープで補修をした。父は「布製だから大丈夫だぞ。紙製なんて目じゃないからな」と自信満々だった。

何ヶ月かはしのいだが、父のその後のガムテープの重ね貼りに業を煮やした母が屋根の修理工を呼んだ。

はじめからそうすればよかったのだと今でも思う。


私はうらんでいたきがする
その上パンをもらう側だったとは

 

セーラーと真逆の自分にへこむ

自分も空腹であるにもかかわらず、ホームレスの女の子にパンをあげるセーラー。

私は電車で、隣の席のご婦人にあんパンをもらったことならある。

その時は嬉しかったが、後で考えると少し不思議なできごとでもあった。ものすごくお腹が空いているように見えたのかもしれない。

しかもわりと最近というのが漠然とした不安感に拍車をかける。

自分は一体、他人にどんな印象を与えているのか。


 

計算ドリル

小学校の時に一番キライだったものは、いじめっ子の男子でも炎天下の運動会の練習でもなく、「計算ドリル」だった。
特に苦手だったのが分数のかけ算割り算で、そのころの計算ドリルが悪夢そのものだった。

しかし、母に徹底的に教えられ、どうにか出来るようになったものだ。

セーラーのこんな姿をみて、あの頃の達成感がよみがえる。「やればできる」という言葉はいつの時代もどこの国でも共通なのだ。

セーラーが独学の時点でかなり差をつけられているが。



上の二点は好きというだけで特に語るエピソードはありません。

奇妙な儀式のようになっている

自分と向き合えた(気がする)

この試みでなにか明確な答えが見い出せたわけではありませんが、いつもと違う場所でいつもと違うことをしてみるという事だけで、いつもとは違う光景が頭の中に広がりました。もしかしたら、魂の浄化の効果もあったのかもしれません。こう書くとそれっぽいから不思議です。

問いかければ答えてくれる。それは他人だけではなく自分にも通用するような気がしました。なんかカッコよく言ってみました。

たまにはベクトルを自身の奥底に設定して、なにかを黙々とやってみるのも新たな発見があるかもしれません。

自分の名前を並べたら平和すぎて逆に焦った

 
 
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