これはパイか?
既製品の骨付きソーセージは腸で骨ごと包んでいたので ジューシーだったが、今回は塗りっぱなしの焼きっぱな しである。
骨に残っていた肉も食べてしまったし、オーブンで肉を 焼いた時の「肉汁が!」な状態にはなるべくもない。
表面に何も塗らなかったので、照りもなければツヤもない。挽き肉に混ぜた調味料も塩オンリーだ。シンプル。というか質素。
そして、これは箸で食べるもんじゃない。なんたって主役は骨なのだ。骨は手で持って食べるものだ。原始の心がそう言っている。
パサパサな上に味付けも地味ときた。普段だったら「なんて味気ない肉なんだ!」と憤慨してもおかしくないのだが、不思議とそうはならなかった。骨のエキスがジワッと挽き肉に移ったのかもしれない。
歯が骨に当たったときの「あ、なんかいまスゴイもん食ってるぞ!」という思い込みの作用も大きかったように思う。
次なる骨
鶏ガラに関しては満足だ。あそこまでやったら「さすがにこれはゴミだ」という気持ちで捨てることが出来る。
じゃあこれはどうだ。
魚の下ろし方がうまくないためか、残った骨の部分に身がたくさん付いているような気がしてならない。
魚の骨からもいいダシが出るらしいが、それはあくまで煮た場合にのみ言えることだろうし、第一アジにも当てはまるかどうか、はなはだ疑問ではある。
でも、さっきの挽き肉が余っているのだ。となれば、やることはこれしかない。
…いいのか。こんなことしていいのか。
いつもよりアジの目が「クワッ!」と見開いてるように感じてしまうのは、神にあらがうような行為をしているせいだろうか。
鶏の骨に鶏の肉を付けるのは理解できる。アジの場合、やるなら魚のすり身だろう、ってのも分かる。
でも近所のスーパーで魚のすり身が売り切れてたんですよ。そして鶏の挽き肉が余ってるんですよ。物を大事にするって、こういうことですよね? わたし、間違ったこと言ってませんよね?
心の中でいろんな言い訳を考えながら、魚焼きグリルで焼いてみた。
あまり違和感のないものが出来上がった。これが豚や牛だったら、これほどまで「まぁお似合い」な組み合わせにはならなかったような気がする。鶏で良かった。
今回は形状がまんま魚なこともあるので、ちゃんと箸を使って食べることにしよう。
鶏とアジが渾然一体となった部分を口に入れる。これが悪くない。というかうまい。合う。合ってしまう。
鶏肉の後ろからアジが「こんにちは」と、もじもじ小さく手を振っているような、と言えば伝わるだろうか。「えー、アンタたち付き合ってたのー!」みたいな。
もしくは「私たち『住む世界が違いすぎる』って周りに反対されて駆け落ちしたけど、質素ながらも幸せにやってます」みたいな。そんな味がした。
なんの話か。もう骨は関係なくなってますね。
おいしいことはおいしい
「捨てる前にもっと何か出来ないか」と思っていたことをあれこれ実現できて楽しかったが、毎回これをやるのは正直大変だし、やる必要もなかろう。
よっぽどネタに困ったライター(私のことです)がトライする類のことなのであえてオススメはしませんが、やると意外に楽しいしおいしいですよ。
ちなみに今回の挽き肉には、塩、卵、片栗粉、ネギが入っております。これくらいシンプルな方がいいようです。
スプーンでこそげ落とすよりキレイになった。晴れて、 正々堂々のゴミ宣言。