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ちしきの金曜日
 
思い出の定食屋の前の道はなぜ曲がっているのか?

文化的に「固い」


1947年の航空写真をふたたび。よく見ると、後の定食屋前にこんもりとした林が見える。【「国土変遷アーカイブ」より】

これはぼくの憶測だが、上の写真に見えるこんもりとした林は、おそらく鎮守の森だろう。

田んぼの神様がいる場所だ。そう簡単には動かせない。さいごのさいごまで-----田んぼがすべてなくなるまで----見守ったのではないか。だから、この前の道だけあとからやってきた鉄道のグリッドに沿わなかったのだ。たぶん。

山や、崖、岩盤など物理的に固いものは容易に変えることはできないが、こういう文化的に「固い」ものもまたしかり。

 

共感が得られないときは、やぶれかぶれ!

…っていっても「ふーん、あ、そう」としか思わないですよね。そうですよね。

えー、すごく感動したんだけどなあ、ぼく。

こういう共感が得られないとき、どうしたらいいのか。

しつこく繰り返すのだ!つぎの「千葉大周辺の気になる道」をご紹介しようではないか!


この、狭い間隔で平行する道路が気になっていた。気になってたの!【大きな地図で表示

どうだ。

どうだ、って言われても困ると思うけど。

ここも学生時代時分、ぼんやりと「へんだなあ」と思っていたが、とくに調べてみようとも思わなかったところ。まわりの道路とくらべると、狭い間隔で平行して道が走っている。


家一件分の幅で道が平行している。それにしてもなつかしいな、ここらへん。

伝わりづらいときは、なんとなくダイナミックな絵面にして押し切る!

たった家一件分の幅で道が平行している。こういう「平行道路」って日本中にたくさんある。たいてい、逆向きの一方通行道路であることが多い。

建っている家にしてみれば、どちら側も表玄関にできるのだが、そうはしていないのも面白い。

「ははーん」とピンと来た方もいらっしゃると思う。いるよね。いてよ。そう、これはつまり、たぶん、川の跡だ。川を埋めるか暗渠化してできた土地は奇妙な幅になる場合が多い。そりゃそうだ。川の神様は人間の道路の事情を考慮して川幅決めてるわけじゃないからな。


地形図で見ると、ここ、崖の際だ。うん、川容疑濃厚。【国土地理院数値地図をカシミール3Dで表示】

平行道路から北の方を見る。プチ崖だ。
ほらほら!

この地名も状況証拠だ

くだんの航空写真を見ても川の跡は発見できなかったが、地形的にみて容疑は濃厚だ。

さらに、ここらへんの地名も川容疑を色濃くする。「轟町」というのだ。

全国的に「轟」の名のつく土地は水に縁が深い。そもそも「どど」っていうのは水音から来ているという説もあるのだ。

うん、きっとそうだ!逮捕!なにが?


と思ったら以外などんでんがえしが!

…っていっても「ふーん、あ、そう」としか思わないですよね。そうですよね。知らない街の川の跡推理されてもねえ。

えー、すごく感動したんだけどなあ、ぼく。なつかしいし。

というかですね、この「轟町」の由来、いい気になって「水由来」とか推理してたら、意外な事実が!

…そのどんでんがえしは、最後に。びっくりだよ。

さて、共感が得られないまま、次の「大山が勝手に懐かしがっている街にある、勝手に不思議がっている道」をご紹介しよう!

 

地形図みてたら気になるこんもり、が。


ここが気になる。このこんもり。

さて、平行道路の川容疑を固めるために地形図を眺めていたら、べつの場所が気になった。これも千葉大のそば、国道16号線の脇のこんもりした場所だ。


ああ…なつかしいなあ…浅間神社だ…【大きな地図で表示

みるからにこんもりしている

ここでまた、思い出がよみがえる。

そうだ、浅間神社だ!

地元でも有名な夏祭りが行われる神社。ああ、そういえば冒頭の婉曲なお断り文句を言った子と行ったなあ…

…30代後半の独身男性のこういう昔話など聞きたくないっすよね。すみません。

さて、この浅間神社。神社名でピンと来る方もいらっしゃるのではないか。いるよね。いてよ。


かくじつにこんもりしている。
墨痕鮮やか、「浅間神社」

稲毛浅間神社のサイトにも「富士山を神と仰ぎ奉る」とある。

以前書いた「富士塚」の記事でも説明したが、実は「浅間神社」という名前の神社は、富士山を神格化した、富士山南麓にある富士山本宮浅間大社を総本宮とする神社なのだ。この稲毛浅間神社もまたしかり。

学生の時には神社の由来なんて気にも留めなかったよ。

ま、なんというか、神社に詳しくなったりするって、あきらかにおっさんになっている証拠なわけだが。


境内には「小御嶽社」もちゃんとある。
これは富士山吉田口5合目にある小御嶽神社の分祀。磐長姫命を祭っている。

稲毛浅間神社のサイトには『文治3年(1187年)の社殿再建に際しては、富士山の形に盛土をし、参道も富士登山道にならい三方に設け、社殿は東京湾を隔てて富士山と向かい合って建立されました』とある。

ふたたび「国土変遷アーカイブ」を見てみると、見事に東京湾を臨んでいる。


1961年。浅間神社の下は海岸だった。北西の、まさに埋め立てが始まろうとしている部分もすごい。【「国土変遷アーカイブ」より】

1970年。かなり埋め立てが進行。【「国土変遷アーカイブ」より】

北西から浅間神社の方を見る。国道が海岸線だったのね。

で、前出の「富士塚」の記事の主人公である富士塚探求者である有坂さんのサイトに、この稲毛浅間神社にまつわるとても興味深い写真資料があった。


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