さわやかさという森に迷って
ここまでさわやか要素を自分に投入してきたが、特に変化は見られない。まだいつもの自分がいるだけだ。さらに追加していこう。
続いて実践してみるのは、古賀さんの「リンゴ丸かじり」という意見。
「リンゴ丸かじり=さわやか」という構図。自分の中では結びついていなかったものだ。
実際どうなんだろう。歯茎から血が出てしまったりしないだろうか。そんな結果になったら、むしろさわやかさから逆に遠ざかってしまうことになりはしないだろうか。
心に去来する疑問。果たしてこれで私はさわやかになれるのだろうか。いや、ぐずぐず考えるよりも、大切なのは実践だ。
結果に自信のもてないままにリンゴをかじる。ガシュッっという音とともに、果汁が口の中にほとばしる。一瞬、もしかしたらこれはさわやかか?と、かすかな希望が見える。
そしてかじった部分を見る。よし、出血なし。
とりあえず歯茎の健康を確かめることはできた。しかし、その行為はさわやかなのだろうか。せっかくの果汁由来のさわやかさを、打ち消してしまってはいないだろうか。
続いてのさわやか要素は「笑顔でレモン」という小堺さんのご意見。これはわかりやすい。いろんな芸能人がレモンを持って微笑む様子が表紙になっている雑誌があるだろう。
確かにあれはさわやかっぽい。実績がある分、信頼性の高い方法だと思う。ただ、自分でやってみた様子を見ると、何かが違う。
信頼性が高かった分、思った通りの効果が出ないと反動のショックが激しい。「レモンVS自分」みたいな構図になっている。ここは和解を求めたい。もっとアグレッシブに食いついていこう。
そういうわけで、レモン丸かじり。嫌だな…と思って始めた結果、その予感は的中。
というか、的中するに決まってる。口に広がる、強烈な苦さとすっぱさ。このシチュエーションはなんなんだ、と自分でも思う。普通そんなことしないだろ。さわやかさのためとは言え、単なる我慢大会になっているのではないか。
それもそうだ。そもそも小堺さんの意見は「笑顔でレモン」であって、「レモン丸かじり」ではない。リンゴの方とごっちゃになって、勝手に混迷しているだけだ。
かじり跡のついたレモンをじっと見つめる。俺は何だ?ゴリラか?
いけない、自分を見失っている。ゴリラだってレモン丸かじりはしないだろう。ここは気持ちをリセットさせたい。家でちまちまもがいているのではなく、外に飛び出そう。そう、古賀さんの意見には「青い草原」というのがあった。
現在5月、ちょうど緑が美しい季節だ。自分を直接にさわやかにするのではなく、さわやか要素に包まれることでさわやかに紛れ込みたい。そういう手段もありだろう。
そういうわけで、草原に向かって車を走らせる。そんな私を待っていたのは、サービスエリアでのおいしそうなソーセージだった。
ソーセージ系の専門店が出しているらしく、看板には「ん!?これは、ステーキ!?!?」とあるこのソーセージ。ものすごい自信。感嘆符と疑問符の重層的な使い方にも、革命の予感を感じさせる。
食べてみる。うまい。スナックコーナー的なところではなく、専門店が売っているだけあって、この手の施設でのソーセージの平均値をはっきり超えている。レベルは高い。
ただ、やっぱり君はソーセージだよ。決してステーキではない。
それは決して批判ではない。僕はあなたに、自分が自分でいることの大切さを教わった気がしたんだ。さわやかさとは関係のないことを書いて、気持ちも落ち着いた。いざ草原を目指そう。