特集 2016年7月25日

麺作りから始まった工作機械の歴史

日本における工作機械の発展には、麺を作る機械に人生を掛けたある男が大きく関わっていました。
日本における工作機械の発展には、麺を作る機械に人生を掛けたある男が大きく関わっていました。
創業当時は現在とちょっと違う事業をやっていた会社というのが結構ある。たとえば化粧品や健康食品を扱うDHCが翻訳委託業(大学翻訳センターの略でDHC)だったり、ファッションセンターしまむらが呉服屋だったり。

世界の生産現場を支える工作機械メーカーであるオークマもその一つで、最初はうどんやそうめんを作る機械を作っていたそうだ。
趣味は食材採取とそれを使った冒険スペクタクル料理。週に一度はなにかを捕まえて食べるようにしている。最近は製麺機を使った麺作りが趣味。(動画インタビュー)

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愛知県のオークマ本社にやってきました

高精度・高剛性のNC旋盤やマシニングセンタなどを手掛ける総合工作機械メーカーのオークマ株式会社。

資本金180億円、従業員2,000人以上という愛知県を代表する大企業のひとつなのだが、創業時は大隈麺機商会という名前で、製麺機の製造、販売をしていたらしい。
オークマ本社のごく一部。広すぎて全体が写真にまったく入らない。
オークマ本社のごく一部。広すぎて全体が写真にまったく入らない。
ひょうたんからコマ。製麺機から工作機械。

なぜ佐賀で製麺機を作っていた会社が、機械を作るための機械である工作機械を愛知で作るようになったのだろう。

そんな疑問にわざわざ答えてくれたのは、営業部主任専門役の石塚強さん。
貴重な資料を用意して待っていてくれた石塚さん。ちなみにここは喫茶店ではなく、社内にある打ち合わせスペース。
貴重な資料を用意して待っていてくれた石塚さん。ちなみにここは喫茶店ではなく、社内にある打ち合わせスペース。
現在の会社案内に載っている工作機械の一例。製麺機を作っていた会社は、今はこれを作っているそうです。
現在の会社案内に載っている工作機械の一例。製麺機を作っていた会社は、今はこれを作っているそうです。

大隈麺機商会の複雑な成り立ち

まずオークマの前身(大隈鐵工所)の前身である大隈麺機商会が設立されるまでの流れを説明していただいた。

創業者である大隈榮一(以下すべて敬称略)は、明治3年生まれで佐賀県神埼郡三田川村出身。元々の職業は警察官。

結婚相手である鶴澤政子の父、鶴澤榮吉がうどんを作る製麺機の開発者であり、佐賀で『機械うどん屋』と呼ばれた乾麺のうどん屋をしていた。
※製麺機の発明には、蒲原末次郎、眞崎照郷といった佐賀の同村出身者も深く関わっている。

明治27年に鶴澤榮吉が念願だったそうめんも作れる凸凹噛合式剪断機(麺を切る機械)の開発に成功すると、そのサポートをしていた大隈榮一は明治29年に巡査部長の職を辞して、義父と一緒に製麺機製造に携わるようになる。

石塚さんからコピーをいただいた『大隈榮一翁傳』という記録には、「サーベルを捨ててハンマーに親しむ第一歩であった」と、うまいこと書かれていた。
大隈榮一。明治3年(1870)~昭和25年(1950)。
大隈榮一。明治3年(1870)~昭和25年(1950)。
大隈榮一が出資者を募って、製麺業ではなく製麺機の製造をする佐賀麺機製造合資会社を一緒にはじめたところ、これが大ヒットとなる。

だがこの製麺機が儲かりすぎたことで、開発者である義父の鶴澤と、世話になった出資者への利益分配で大隈は板挟みとなり、 「不孝の子となることは素より望むところでないが、不信の友となることは絶対にできません」と義父に告げ、僅か一年で会社は解散。

出資者には配当金を付けて返済し、義父には工場設備をすべて明け渡し、大隈榮一は製麺機3台と職工を一人連れて、明治30年(1897)に名古屋へと旅立つのだった。
製麺機の特許取得で上京のたびに立ち寄った名古屋は麺類の盛んな土地であり、発展性が大きいだろうと予測したそうです。写真は私が駅のホームで食べたきしめん。
製麺機の特許取得で上京のたびに立ち寄った名古屋は麺類の盛んな土地であり、発展性が大きいだろうと予測したそうです。写真は私が駅のホームで食べたきしめん。
道中の小豆島で持参した製麺機を300円で売り、2か月かけて名古屋へと到着。この300円を元手として掘立小屋を借り、明治31年に大隈麺機商会の看板を掲げると、自らも旋盤のハンドルを回し、金槌の頭を叩き、製麺機の製造と開発に没頭することとなる。

ここまでが大隈麺機商会ができるまでの流れであり、すでに朝ドラっぽさがすごい。2人は別に絶縁したという訳ではないので、佐賀から名古屋へ製麺機の部品を取り寄せたりはしていたようだ。

そしてここから先の話は、オークマ本社内にあるメモリアルギャラリー(一般には非公開)を案内していただきながら、じっくりと伺わせていただいた。
このギャラリーの噂を聞いて、はるばる愛知まできたのですよ。
このギャラリーの噂を聞いて、はるばる愛知まできたのですよ。
「百の賛辞より一つの批難を喜ぶ」というのが、大隈榮一の大切にした心構えだそうです。
「百の賛辞より一つの批難を喜ぶ」というのが、大隈榮一の大切にした心構えだそうです。
オークマの歴史は日本における産業発展の歴史でもあるため、このメモリアルギャラリーは経済産業省の近代化産業遺産として登録されている。
オークマの歴史は日本における産業発展の歴史でもあるため、このメモリアルギャラリーは経済産業省の近代化産業遺産として登録されている。
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まずは製麺機の紹介からスタート

メモリアルギャラリー内は時系列に沿って展示されており、スタート地点では製麺機の情報がたっぷりと語られている。

オークマの歴史を知らずにここを案内されたお客さんは、なにがなにやらと思うことだろう。
創業時から第二次大戦後までの製品一覧。
創業時から第二次大戦後までの製品一覧。
製麺機の欄はここだけだったりする。
製麺機の欄はここだけだったりする。
製麺機の命である麺を切る刃棒部分。溝が刻まれた2本の刃棒の凸凹がぴったりと接しているため、その間に薄い生地を通すことで麺となる。
製麺機の命である麺を切る刃棒部分。溝が刻まれた2本の刃棒の凸凹がぴったりと接しているため、その間に薄い生地を通すことで麺となる。
このように製麺機からスタートしたオークマだが、時代の流れに合わせて他の事業へと注力するため、昭和26年(1951)に製麺機部門を分離独立し、株式会社大隈式麺機製造所を設立している。

そして昭和36年(1961)、大隈鐵工所の常務取締役だった川島米次郎が矢田工場を継承して立ち上げた中部機械株式会社に麺機製造販売権を譲渡し、現在は株式会社大隈式麺機商会が製麺機を生産しているようだ。

ここに来る前にいろいろ検索したら、大隈式麺機商会という会社が出てきて、どういう関係なのか気になっていたので、それがわかってすっきりした。
これは大隈式麺機製作所となった時代の刃棒。この凸凹がネジっぽいことに注目しておいてください。
これは大隈式麺機製作所となった時代の刃棒。この凸凹がネジっぽいことに注目しておいてください。
オークマの工作機械で作られた現代の刃棒で、紙を切る実験をすることができる。ちなみにシュレッダーは製麺機から生まれた(こちらの記事参照)。
オークマの工作機械で作られた現代の刃棒で、紙を切る実験をすることができる。ちなみにシュレッダーは製麺機から生まれた(こちらの記事参照)。
刃棒の凸凹が隙間なく合わさることで、ハサミのように紙が切れる。創業当時から0.05ミリの誤差を目指して作っていたそうです。
刃棒の凸凹が隙間なく合わさることで、ハサミのように紙が切れる。創業当時から0.05ミリの誤差を目指して作っていたそうです。
混和機で水と小麦粉を混ぜ、粗麺機で生地にして、精製機でだんだん薄くして、麺線機で麺にする。製麺機とはこれらのユニットの集合体のこと。当時のカタログによると三井物産を通じて朝鮮半島でも販売をしていたようだ。
混和機で水と小麦粉を混ぜ、粗麺機で生地にして、精製機でだんだん薄くして、麺線機で麺にする。製麺機とはこれらのユニットの集合体のこと。当時のカタログによると三井物産を通じて朝鮮半島でも販売をしていたようだ。

昔の製麺機が残っていた

2006年に廃業した三蔵屋食品というきしめん屋さんから譲り受けたという、だいたい90年位前に生産された大隈鐵工所時代の貴重な製麺機も展示されている。

これがまあ……かっこいいんだ。
大隈麺機商会時代の貴重な製麺機。防錆処理をしたために製麺はさすがにできないが、スイッチを入れて歯車を回転することは今でも可能。
大隈麺機商会時代の貴重な製麺機。防錆処理をしたために製麺はさすがにできないが、スイッチを入れて歯車を回転することは今でも可能。
電気モーターでベルトを回し、歯車を回転させて製麺機を動かしていた。
電気モーターでベルトを回し、歯車を回転させて製麺機を動かしていた。
裏側からの写真もどうぞ。こいつの駆動音がいいんですよ。
裏側からの写真もどうぞ。こいつの駆動音がいいんですよ。
ザ・機械という金属製パーツの集合体。
ザ・機械という金属製パーツの集合体。
個人的にはかっこいい製麺機が見られたのでもう大満足なのだが、今日の目的は製麺機作りから工作機械作りへと方向転換した理由を知ること。

ここからが社会科見学の本番なのである。
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なぜ工作機械を作るようになったのか

創業から僅か6年、明治37年(1904)になると、大隈麺機商会は工作機械の製造を始めるようになる。あっという間の事業拡張だ。

そのきっかけとなったのは日露戦争であり、製麺機の需要がピタリと止まった反面、民間工場にも軍事品の発注が急増した。これが工作機械分野へ進出する第一歩となった。

なんで製麺機屋さんが精度を求められる軍事品や工作機械を作れたかというと、製麺機と工作機械は似ているから。

何を言っているんだと思うかもしれないが、ネジと刃棒は似ているのだ。
左が削るものを回転させて切削加工をする旋盤、右がドリルを上下に動かして穴をあけるボール盤。
左が削るものを回転させて切削加工をする旋盤、右がドリルを上下に動かして穴をあけるボール盤。

製麺機の刃棒も、工作機械のネジも、精度を求められるという点は同じであり、流用できる金属加工技術は多い。

そして大隈麺機商会には製麺機を改良するために刃棒専用の旋盤を開発していたというバックボーンがある。

オークマ創業100年史には、「刃棒で鍛えた技術は、工作機械に進出した際の旋盤製造にも大きな力になったに違いない。旋盤の親ねじに製麺機の姿を見いだしたのではないだろうか。」 と書かれている。
パーツごとに見ていくと、やはり製麺機っぽさがあるんですよ。そりゃ親ネジに製麺機の姿を見いだすよね。
パーツごとに見ていくと、やはり製麺機っぽさがあるんですよ。そりゃ親ネジに製麺機の姿を見いだすよね。
大正7年(1918)に株式会社となった際の社名は大隈鐵工所。もはや麺の文字がまるっきり消えている。

これは想像の話になるのだが、警察官の職を辞してまで義父の製麺業・製麺機製造を手伝うようになったのは、別に麺作りが好きだからとうい訳ではなく、正確な金属加工だったり、創意工夫を極めるのが好きだったからではないだろうか。

義父がうどんの手打ち職人だったら、たぶん一緒にやってはいなかったと思う。
アップで見ると、ほぼ製麺機だ。
アップで見ると、ほぼ製麺機だ。
また軍事品は社会情勢に左右されることが多いので、製麺機作りで培った技術と元々の発想力を活かし、羊毛を糸にする紡績機や漁業用の網を編む無結節漁網機、巻きタバコの製造機、あるいは鰹節削機といった平和産業にも注力していく。
漁網を編む機械。こういった仕組み(カラクリ)を考えるのが好きだったのだろう。
漁網を編む機械。こういった仕組み(カラクリ)を考えるのが好きだったのだろう。

工作機械がかっこいい

時代が進むにつれて製麺機は社内での影を薄くしていき、展示物も当時の工作機械がメインとなる。

それにしても、工作機械というものがここまでかっこいいとは思わなかった。
三菱重工業の名古屋航空機製作所で使われていた昭和11年製のOWR形旋盤。
三菱重工業の名古屋航空機製作所で使われていた昭和11年製のOWR形旋盤。
昭和初期の工場。旋盤製作は当時としては最先端の技術だが、職人が履いているのは雪駄だったりする。
昭和初期の工場。旋盤製作は当時としては最先端の技術だが、職人が履いているのは雪駄だったりする。
航空母艦に積まれて飛行機の修理などをおこなった、艦載機と呼ばれる軽くてコンパクトな旋盤。1939年製。
航空母艦に積まれて飛行機の修理などをおこなった、艦載機と呼ばれる軽くてコンパクトな旋盤。1939年製。
船舶の部品を作るでっかい旋盤の写真。みんなオシャレをしているね。製麺機からだいぶ遠くへきた感じがする。
船舶の部品を作るでっかい旋盤の写真。みんなオシャレをしているね。製麺機からだいぶ遠くへきた感じがする。
蒸気機関車みたいだがこれも旋盤。この頃に中京デトロイト計画というものがあり、あつた号という車の開発にも携わっていた。
蒸気機関車みたいだがこれも旋盤。この頃に中京デトロイト計画というものがあり、あつた号という車の開発にも携わっていた。
蒸気機関車というよりは銀河鉄道みたいかも。
蒸気機関車というよりは銀河鉄道みたいかも。
当時4,800円だったというUEG形六呎普通旋盤。「呎」はフィートと読むそうです。
当時4,800円だったというUEG形六呎普通旋盤。「呎」はフィートと読むそうです。
この旋盤が4,800円の時代に、職人の月給が100円でゼロ戦が70,000円だったらしい。
この旋盤が4,800円の時代に、職人の月給が100円でゼロ戦が70,000円だったらしい。
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工作機械以外も見どころ多数

このメモリアルギャラリーには工作機械などの商品だけではなく、当時の様子がわかる資料も多数展示されている。
第十三期(1931年)の収支報告書。海軍部、陸軍部、専売局(タバコ)、一般、麺機部とある。こういった資料を眺めているだけで一日楽しめそうだ。
第十三期(1931年)の収支報告書。海軍部、陸軍部、専売局(タバコ)、一般、麺機部とある。こういった資料を眺めているだけで一日楽しめそうだ。
昭和15年(1940)の社内報に掲載されていた大隈文藝という俳句の投稿欄。「入梅や 汗と油の 作業服」と上品なサラリーマン川柳みたいだ。
昭和15年(1940)の社内報に掲載されていた大隈文藝という俳句の投稿欄。「入梅や 汗と油の 作業服」と上品なサラリーマン川柳みたいだ。
同じ社内報に掲載されていた英単語の解説一覧。当時は欧米の工作機械が手本だったそうです。
同じ社内報に掲載されていた英単語の解説一覧。当時は欧米の工作機械が手本だったそうです。
左が定盤というすべての基準となる平らな板、右が直角を計るための円筒スコヤ。これらももちろん社内で製作したもの。ネコ以上になでたい。
左が定盤というすべての基準となる平らな板、右が直角を計るための円筒スコヤ。これらももちろん社内で製作したもの。ネコ以上になでたい。
工作機械の実物から受ける印象を、これらの付帯情報が細くしてくれることで、様々なストーリーが脳内で展開されていく。

このドラマ、さて主演は誰にしようかなと勝手に妄想する訳である。

コンピューター制御の時代に突入

そして戦後、大隈鐵工所は工作機械にCNC(コンピュータ数値制御)をいち早く導入し、現在のオークマへと続いていく。

ここまで50年以上に及ぶ産業史を一気にみてきたため、私の頭ではすっかり情報を処理し切れなくなっている。

ここから先の話はオークマのサイトにある『機・電一体のオークマ』にも掲載されているので、興味のある方はぜひそちらをご参照ください。
造船所に多く納入されたDPU-80。ものすごく大きいよ。
造船所に多く納入されたDPU-80。ものすごく大きいよ。
高度成長期の初代ヒット商品「ラジアルボール盤DRA-J」。この頃までは職人によるハンドル操作ですべてを動かしていた。
高度成長期の初代ヒット商品「ラジアルボール盤DRA-J」。この頃までは職人によるハンドル操作ですべてを動かしていた。
1963年にNC装置の自社開発を開始。手動で動かすハンドルがなくなり、制御回路をIC化した数値制御装置が備わるようになる。
1963年にNC装置の自社開発を開始。手動で動かすハンドルがなくなり、制御回路をIC化した数値制御装置が備わるようになる。
電子的な記憶媒体がまだない時代は、制御情報の読み書きに紙テープが使われていた。
電子的な記憶媒体がまだない時代は、制御情報の読み書きに紙テープが使われていた。
1972年には世界で初めて独自開発したミニコンピュータを搭載。ただし記憶容量はまだ64キロバイト。
1972年には世界で初めて独自開発したミニコンピュータを搭載。ただし記憶容量はまだ64キロバイト。
位置を検出する機械。職人の腕と勘で動かしていた工作機械が、より正確なデジタル制御に切り替わっていく。
位置を検出する機械。職人の腕と勘で動かしていた工作機械が、より正確なデジタル制御に切り替わっていく。
工作機械の加工精度、速度、信頼性を向上させたデジタルサーボモーターも自社で生産している。石塚さんは飛騨高山でちぢれ麺作りにサーボモーターが使われているのをたまたま見て(たぶんここ)、「お!」と思ったとか。
工作機械の加工精度、速度、信頼性を向上させたデジタルサーボモーターも自社で生産している。石塚さんは飛騨高山でちぢれ麺作りにサーボモーターが使われているのをたまたま見て(たぶんここ)、「お!」と思ったとか。
1980年代になり操作パネルにモニタが付いたことで、機械を動かす前にシミュレーションが可能となった。
1980年代になり操作パネルにモニタが付いたことで、機械を動かす前にシミュレーションが可能となった。
ウルトラマン世代の道具っぽさ。
ウルトラマン世代の道具っぽさ。
ちなみに現在のオークマの代表取締役社長である花木義麿さんは、工作機械のコンピュータ化に貢献した方だそうです。
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そして現在のオークマはこうなった

オークマの過去を紹介するメモリアルギャラリーの出口を抜けて、現在のオークマを知るためにショールームを案内していただいた。

ここは工作機械の展示はもちろん、機械を購入した会社に操作方法を教えたり、顧客からの「こういうパーツは作れますか?」という質問に対してテストカットをしたりする場所。
もう外から見ると何の機械なのかわからないですね。
もう外から見ると何の機械なのかわからないですね。
そんなこんなで製麺機を作っていた大隈麺機商会は、ジェットエンジンや人工衛星のパーツも作れる工作機械のリーディングカンパニー、オークマとなった訳だ。
どういう理屈かまったくわからないのですが、5軸制御によってこういう形が削れるそうです。
どういう理屈かまったくわからないのですが、5軸制御によってこういう形が削れるそうです。
製麺機からだいぶ遠くまできた感はあるが、オークマの工作機械で製麺機を作っている会社はたくさんあるので、もしかしたら間接的には大隈榮一に縁のある麺を、我々は今も食べているのかもしれない。
工作機械の部品加工工場。「せっかくだから、ひとつどうですか?」と石塚さん。僕の部屋より大きいので置けないかなー。
工作機械の部品加工工場。「せっかくだから、ひとつどうですか?」と石塚さん。僕の部屋より大きいので置けないかなー。

鶴澤榮吉との後日談

さて諸般の事情で大隈榮一とたもとを分かつことになった義父の鶴澤榮吉はその後どうなったのか、気になっている読者も多いことだろう。

佐賀麺機製造合資会社を解散後も佐賀で製麺機の製造販売を続けた後、やはり製麺機から離れて鶴澤鉄工所へと社名も変わったが、その会社は現在もしっかり存在している。そしてなんと最近になって、オークマに工作機械の注文があったそうだ。
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