落ち着いた住宅街といった風情
「上北沢」と「下北沢」は、どちらも同じ世田谷区内。名称的には隣町のようだが、地図で見るとわかるように、かなり離れている。
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まず、向かったのは「上北沢」。「下北沢」ほどの知名度はないが、どんな街なんだろうか。
新宿駅から京王線で14分
駅を降りると、そこは落ち着いた住宅街といった風情。週末ともなれば若者でごった返す「下北沢」とは、かなり雰囲気が異なる。
土曜の夕方でこんなかんじ
藤子・F・不二雄的なダンススタジオ
都心に比べると家賃相場もお安い
踏切の向こうに商店街が伸びていた
ジョッキで300円という立ち飲み価格
駅周辺を歩くこと数分。さっそく気になる店を見つけた。まだ18時前なのに絶賛営業中である。
風に吹かれながら飲める嬉しい仕様
店の名前は「狸穴(まみあな)」。麻布の方にそういう地名があったはずだが、由来はなんだろう。
地元の名店なのである
一番高いフードメニューが350円
カウンターの中にいたマスターにご挨拶。聞けば、この店がオープンしたのは5年前。営業時間は17時から23時ぐらいという男気あふれる設定だ。「狸穴」という店名は「なんとなく語感が気に入って」とのこと。
マスターの舟崎英義さん(68歳)
「調布で『フルール』っていう名前のカラオケスナックを長いことやってるんだけど、たまたま友達がこの物件を見つけて。最初はオール立ち飲み席の店だったんだよ。でも、最近俺もお客さんも疲れてきちゃって、カウンター席だけ椅子を入れた」
では、さっそくですがマスター、「上北沢」ください。
「はいよ、『上北沢』」
出てきたのはバイスサワーだった。ジョッキで300円という立ち飲み価格。
「しそ梅エキス入りの炭酸飲料を焼酎で割ったやつね。いつもはしその葉っぱを添えるんだけど、今日はないからほうれんそうにしといた」
ずいぶん肩の力の抜けたアレンジだが、妙な説得力がある。
ひとくち飲むと…
おお、これはおいしい。しそ梅エキスが想像以上に濃厚。しかも、さっぱりしている。クセになる味だ。この店では夏の一番人気なんだとか。
毒入りのオロナミンCが見つかって大騒ぎになった
ここで、隣のお客さんが「マスター、今日まぐろある?」と質問。マスターは「ないよ。買っといでよ」。お客さん、ふらっと出て行った。近所のスーパーに行くらしい。
自由すぎる
「ここは、みんなの店だから。お客さんが洗い物もしてくれるし、俺が都合悪くても誰かが開けてくれるから年中無休。こう見えて客層は、医者、弁護士、中小企業の社長という具合にインテリゲンチャの集まり。でも、みんな歳をとってインチキゲンチャになっちゃった」
ところで、「下北沢」についてどう思っているのだろうか。マスターに振ると、「ほら、そこの人が商店会の会長だから」と指をさす。
向かいの八百屋さんの店主でもある
会長いわく、「ここは住宅街だけど、あっちは商売の街だよね。全然違うから」。さらに別のお客さんからも、様々なコメントが。
「ここは、現役時代の長嶋や政治家の中曽根が住んでたんだよ。あとは、中尾ミエがしょっちゅうジャージで歩いてる」
「決定的にリードしてるのは、『上北沢』っていう住所はあるけど『下北沢』はないということ。あっちは北沢とか代田になっちゃうからね」
「昔、そこの薬局の自販機から毒入りのオロナミンCが見つかって大騒ぎになったんだよ」
最後のはあまり関係ないが、やはり同じ「北沢」同士、意識はしているようだ。
八百屋さんのシャッター
ところで、この絵が気になる。会長に聞くと、「デザイン学校の生徒さんが描いてくれたんだよ。25年ぐらい前かな」。
運転席には25年前の会長
そんな話を聞いていると、別のお客さんが会長に「焼き芋まだある?」と尋ねた。「あるよ」と言って店から焼き芋を持ってくる会長。
ふだんは店頭で売っている焼き芋
蜜がトロトロ、紅はるかという品種で作った絶品焼き芋である。1本150円のことだが、さっきのお客さんが「気にしないでいいから」と代金を払ってくれた。
テラス席(?)で楽しそうに飲む常連さん
マスターによれば、一見さんもけっこう入ってくるそうだ。繁盛のコツを聞いてみたところ、「一生懸命やらないことかな」と冗談めかして答えてくれた。
帰り際に常連さんが、耳元で「いい酒飲んで、いいもん食って、幸せでしょ。人生こんなもんだよ」と囁いた。
漏れ聞こえる「チュウ チュウ チュチュ」
後ろ髪を引かれながら、次の「下北沢」へ。明大前で井の頭線に乗り換えて、10数分で到着した。
2013年に地下化した下北沢駅
南口の王将へと続く道
家賃相場も少々お高くなります
マクドナルドの左側の道を下ると、「ここだ!」という店がすぐに見つかった。
「バー キタザワ」
上北沢でも下北沢でもない。北沢である。まさに今回のテーマと合致する。
漏れ聞こえる「チュウ チュウ チュチュ」
1978年にヒットした榊原郁恵の「夏のお嬢さん」。「アイスクリーム ユースクリーム」だ。
昭和の懐かしテイストを前面に押し出す
ところで、リリーさんに似てますよね?
階段を上り、店内に入るとーー。
スナックのような佇まい
おお、いいではないか。カウンターの中にリリー・フランキーがいたので声をかけると、マスターだった。
田近正章さん(41歳)
オープンは12年前。田近さんは9年前から働き始め、途中から店長を任されている。ところで、リリーさんに似てますよね?
「新規のお客様には、3人に1人の確率で言われますね。常連さんはみんな『リリー』と呼びます」
口に出さない人もいるだろうから、要するにほぼ全員が似ていると思っているはずだ。
価格は良心的。ハイボールがイチ押しらしい
お腹が空いたらチキンラーメン
飲みすぎたら翌ケロ
トイレの壁も扇情的
ちなみに、カウンターの中にはもう一人男性がいた。アルバイトの高橋卓郎さん(30歳)だ。俳優をやりながらここでも働いているという。
「趣味は読書で河合隼雄とかよく読みます」
歴史の重みが氷に溶けて
どんなお店かは大体わかった。さてマスター、「下北沢」ください。
トリスである
「はい、『下北沢』です」
数分後、出てきたのはいわゆるトリスハイボール。しかし、ただのトリハイではない。今は一般流通していない昔ながらのトリスウィスキーを特別なルートで仕入れて作っているのだ。
いま、昭和を飲んでいる
歴史の重みが氷に溶けてカランと鳴れば懐かしや。思わず都々逸を詠んでしまうぐらい、おいしい。
「いま流通しているのは『トリス エクストラ』という名前で、やっぱり味が違うんです。瓶も手に入らないので、業者からリッター単位で仕入れて昔の瓶に詰め替えています」
左から超昔、昔、今のトリス
ちなみに上北沢の印象について聞いてみると、「ああ、友達が住んでいたので1回だけ行ったことがありますね」とのこと。やはり、隣町という意識はなさそうだ。BGMはちあきなおみの「喝采」に変わっていた。
かつての北沢川の名残
「上北沢」と「下北沢」。あらためて調べてみると、世田谷にはかつて目黒川の支流、北沢川が流れており、水源地が「上北沢」で下流が「下北沢」となったらしい。今は暗渠化されているため、地名だけにその名残が残っているのだ。ごちそうさまでした。