特集 2015年2月28日

ドリームランドの名物キャラ、ヘイヘイおじさんはいま

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横浜ドリームランドに、「ヘイヘイおじさん」という名物従業員さんがいらっしゃいました。現在は何をしているんでしょうか? という投稿が、hondairieさんからはまれぽ.comに届きました。

調べたところ、今もお元気で、趣味の旅行や温泉を楽しむ日々を送っています。「人を喜ばせたい」というサービス精神は今でも健在でした。

はまれぽ.com ほしば あずみ

この記事ははまれぽ.comの2012年の名作記事の再録です。最終ページにヘイヘイおじさんの最新情報も追加しました!
はまれぽ.comは横浜のキニナル情報が見つかるwebマガジンです。毎日更新の新着記事ではユーザーさんから投稿されたキニナル疑問を解決。はまれぽが体を張って徹底調査します。

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ヘイヘイおじさんは今どこに?

2002(平成14)年に38年の歴史に幕を閉じた横浜ドリームランド。

まだ東京ディズニーランドもなかった1964(昭和39)年の開園当初、総工費約200億円をかけ建設されたドリームランドは間違いなく国内屈指のレジャー施設だった。

そこに今なお伝説のように語り継がれる名物おじさんがいた。
その名も「ヘイヘイおじさん」。
検索の予測変換にも登場する
検索の予測変換にも登場する
Wikipediaの「横浜ドリームランド」の項にも載っている
Wikipediaの「横浜ドリームランド」の項にも載っている
ヘイヘイおじさんは派手な衣装を身にまとい、「ミュージックエキスプレス」という回転系アトラクションを操作していた。

フィンガー5の『学園天国』を「ヘーイヘイヘイ…」と歌い、お客さんも「ヘーイヘイヘイ」と掛け合う事で有名で、また、ヘイヘイおじさんの気持ち次第で、アトラクションが逆回転したりスピードが変わったりするのも人気だった。
現役当時のヘイヘイおじさん
現役当時のヘイヘイおじさん
ドリームランドが閉園して10年経つ今でも、当時を思い出して「ヘイヘイおじさんは今どこに?」と思う人は少なくないようだ。

閉園時は既に定年を迎え嘱託として勤めていたというから、今は70歳を超えている。
果たして元気にお過ごしなのだろうか。

Wikipediaによると、閉園後は隣接するドリームボウルでボウリング指導員として勤めていたようだが、そのドリームボウルも2004(平成16)年には閉鎖。

現在は横浜薬科大学の食堂に生まれ変わり、6本のレーンを残すのみである事は、以前はまれぽでもお伝えしたとおり。
ドリームランドを買収したダイエーや跡地に建つ横浜薬科大学にヘイヘイおじさんの手がかりは残っていない。もうだめかと思いきや、意外と近くに手がかりはあった。

ドリームランド跡地に残る、もう一つの名残「相州春日神社」。開園に合わせて奈良の春日神社から分祀(のれん分けのようなもの)された、かつての「ドリームランド春日神社」は今でも薬科大学に隣接しているのだ。

もしかしたら何かご存じかもしれないと問い合わせてみると、なんとご本人を知っているとの事。だが連絡先がわからないので、知っていそうな人を紹介します、という事だった。

こうして連絡先を知っていそうな人を辿り、我々はとうとうヘイヘイおじさんにたどり着いた。
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現在のヘイヘイおじさん

ヘイヘイおじさんこと、新井俊次さん(71)
ヘイヘイおじさんこと、新井俊次さん(71)
当時かぶっていた派手な帽子は今でも大事に保存されていた。この帽子は3代目で、5~6年使ったとの事。「ミュージックエキスプレス」の雰囲気に合わせてご自身で選んだそう。
「グアム旅行で買ったんだよ。こういうのは日本では売ってなかったから」
「グアム旅行で買ったんだよ。こういうのは日本では売ってなかったから」
帽子にぐるりとつけられている缶バッジは、お客さんたちが「つけて」と持ってきたもの。あの派手なジャケットにもそんな缶バッジがいっぱいついていたという。

「ジャケットは支給品だったけど(当時の価格で47万円!)、今も持ってるよ。でも太ったから入らなくなっちゃった」と新井さんは笑う。
新旧混ざる缶バッジ
新旧混ざる缶バッジ
まずはドリームランド閉園後の事を伺ってみた。

「うちで働かないかと誘ってくれた遊園地はあったの。八景島シーパラダイスとか、よみうりランドとかね。でも少し体を壊していたし、やろうって気持ちがないとできないもんだよ」

中でも栃木県の小山ゆうえんち(2005年閉園)からは、ミュージックエキスプレス共々来てほしいと頼まれたという。
「でも遠いじゃない。通うのも大変だし、知らない町に引っ越すのも嫌で断ったら、ミュージックエキスプレスを引き取るという話もなくなったの。悪いことしちゃった」

その後、相棒ミュージックエキスプレスは東南アジアの遊園地に船便で運ばれていったという。
「今でも現役で動いてるんじゃないかなあ。遠いから行けないけどね」
ヘイヘイおじさんとミュージックエキスプレス(当時の写真はすべて新井さんご提供)
ヘイヘイおじさんとミュージックエキスプレス(当時の写真はすべて新井さんご提供)
その後、ボウリングの指導員をしていたというのは事実だそう。

「昔からボウリングは好きだったからね。今でもレーンが残ってるのも知ってる。一般開放してやらせてくれたらと思うけど、音の問題とかで難しいらしいんだよね」

ドリームボウル閉鎖まで指導員をした後は、引退。
今は近くのスーパー銭湯に通ったり旅行に出かけたりとのんびり暮らしているそうだ。

「今でも声をかけてくれる人がいるんだよ。当時みたいな派手な格好もしていないのに、覚えていてくれて、わかるもんなんだね」

ヘイヘイおじさん宛に手紙もたくさん届いたそうだ。「今までありがとう」と、楽しかった思い出や、「将来自分が親になって子どもを連れてくるものだと思っていたのに」という閉園の寂しさがつづられていた。
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手紙は今でも大事にとってあった
手紙は今でも大事にとってあった
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ヘイヘイおじさんの誕生

新井さんは佐賀県出身で若いころは鮨屋や酒屋で働いたりと職を転々としていた。

転機は奈良ドリームランド(1961年開園~2006年閉園)で働いていた妹さんからの誘いだった。「今度、横浜にドリームランドを作るんだって。きっと向いてると思うから働いてみたら?」と勧めてくれたのだという。

当時、24歳だった新井さんはドリームランド開園前の1964(昭和39)年5月に横浜へ移住。以来、ドリームランドの開園から閉園までを見届け、今も横浜在住だ。
「ずっとドリームランドのそばで暮らしてきたもの。横浜がふるさとだと思ってるよ」
「ずっとドリームランドのそばで暮らしてきたもの。横浜がふるさとだと思ってるよ」
初めて見たドリームランドはまさに「夢の国」だったという。ディズニーランドを見て感銘を受けた社長が「日本にもこんな遊園地を」と願って作っただけに、それまでの日本になかったデザインとアイデアに満ちており、パレードもアトラクションも何もかもが珍しかったのだそうだ。

「きっと向いている」という妹さんの言葉どおり、新井さんは持前のサービス精神を発揮。
様々なアトラクションを担当したが、何かひと工夫付け足さずにはいられなかった。

ジャングル探検では説明だけでは足りず、動物たちをピストルで撃つ真似をしたり、ワンダーホイール(大観覧者)もお客さんが乗りこんだところでこっそり押して揺らしたり、電車の車掌をすれば歌いだしたりといったように。
持前のサービス精神を常に発揮していた当時の新井さん
持前のサービス精神を常に発揮していた当時の新井さん
「お客さんの喜んでいる顔が見たい」その思いのまま座ったのがミュージックエキスプレスの操作盤の前だった。

「ミュージックエキスプレスなのにミュージックが流れなかったんだよ。黙って動かしてたんじゃつまらないから、歌ってしゃべって操作してたんだけど、ある時、若い女の子が『おじさん学園天国歌ってよ』ってリクエストしてきて。
小泉今日子が歌って流行ってたんだよね。それでヘーイヘイヘイってやりはじめると、それを聞いてみんな集まってきた。歌ってと集まってくるから歌わないのも悪いしね。
それで女の子たちが『ヘイヘイおじさん』って呼びはじめて。お客さんが喜んでくれるのが何よりだもの、ヘイヘイおじさんで良かったと思うよ」
「声が出るところに人は集まる。今の遊園地だってそうだよ、楽しければ人は来るんだよ」
「声が出るところに人は集まる。今の遊園地だってそうだよ、楽しければ人は来るんだよ」
ヘイヘイおじさんのパフォーマンスでミュージックエキスプレスはドリームランド1番の人気アトラクションになったが、人気の秘密は歌や掛け合いだけではない。

「本当は小さい子は身長が足りないから乗せちゃいけないんだけど、最低速度でゆっくり回してやったりね。それだと他のお客さんは楽しくないから次はスピードを上げて回して、そしたら子どもたちがそれを見て“さっきはゆっくりすぎた”なんて言ってもう一度乗りたがって。パスを使って一日に何度も何度も繰り返し乗るお客さんもいたよ」

ミュージックエキスプレスは時速40~90キロでスピードを変える事ができ、逆回転もできる。それを新井さんはお客さんの状態や反応を見ながら巧みに操作し、時には乗車時間も延長してお客さんを喜ばせた。

自動制御のアトラクションでは味わえないぬくもりが、ヘイヘイおじさんとミュージックエキスプレスにはあったのだ。
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「来る人を喜ばせたい」がヘイヘイおじさんの原動力だった
「来る人を喜ばせたい」がヘイヘイおじさんの原動力だった
「もしドリームランドが復活したら、また働きたいしミュージック(エキスプレス)を回したいねえ。だってあんな楽しいところはないじゃない」と顔をほころばせる新井さん。

ドリームランド誕生から終焉までの38年は新井さんの人生そのものでもあった。入場者数の落ち込みで苦労もあったに違いないのだが、新井さんから語られるのは大勢のお客さんが行列を作り、ドリームランドが輝いていた日々の思い出。それもまるで昨日の事のように。

ヘイヘイおじさんの心の中では、今でもミュージックエキスプレスは回っているのだろう。

今回、記念に”あの曲”をヘイヘイおじさんに歌ってもらいました!

取材を終えて

ヘイヘイおじさんは静かに余生を送っていた。お客さんが喜ぶ事を常に大事にしたその温かさは、10年経っても人々の記憶に残り続けている。

インタビュー中も、好きなものを聞かれ、「焼肉。嫌いなもの、激しい運動」とどこかで聞いたセリフで我々を笑わせるなど、サービス精神は今でも健在だった。いつまでもお元気で過ごしていただきたい。
筆者もヘイヘイおじさんと記念撮影
筆者もヘイヘイおじさんと記念撮影


編集部追記:この記事は2012年11月にはまれぽ.comに掲載されたものの転載です。
はまれぽ.com編集部の山岸さんによると、ヘイヘイおじさんこと新井俊次さんはもちろんいまもご健在。
2013年11月には横浜でドリームランドをモチーフにした舞台が上演され、新井さんはヘイヘイおじさん本人役で登場、ヘーイヘイヘイヘイと歌われたとのこと。すごい!
山岸さんは「思わず『うおお』と立ちあがった」そうです。
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