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コネタ


コネタ053
 
改札口の生け花を観賞する

こういうやつ
多くの駅の改札口付近に、ケースに入った生け花があるのをご存じだろうか。

ぼくの経験からすると、こう問いかけた場合「あー、あるね」という人と「そんなのあるっけ?」という人で、だいたい半々に別れる。

つまり『人間は2種類のタイプに分けられる。改札口の生け花に気付いている人間と気付いていない人間だ』と言うことができるのだ。

もちろんそんな二分法に意味はなく、このことから人間を安易にタイプ分けすることの愚かしさが見えてくるだろう。改札口の生け花が教えるのはそういうことだ。うそですけど。

さて、多くの人がちゃんと見たことがないことうけあいのこの改札口の生け花。生けている方はおそらく真剣だろうが、改札機やキオスクなどの駅を構成するアイテムに比べると、注目度が低い感が否めない。

今回はみなさんに駅の心、改札生け花の見所を解説していきたい。

大山顕(「住宅都市整理公団」総裁)

駅の数だけ、花がある。花の数だけ、ケースがある。

鑑賞ポイントはケースにあり

いくつかの改札生け花を見ていて分かったことは、鑑賞の際に注目すべきは、花ではなく「ケース」である、ということだ。

しょっぱなから早々、生けている方には失礼な発言だが。しかし、改札生け花の魅力の大部分はケースにあり、というのが改札生け花鑑賞通の間での一致した意見である。たぶん。そんなひとたちがいれば、の話ですが。

左の作品のケースはもっとも一般的なタイプだ。簡素な造形が花の魅力を存分に引き出している。いわば改札生け花鑑賞の入門編と言えるだろう。

なんか花も右肩下がりだし。(天理駅)

いわば改札口の箱モノ行政

改札生け花鑑賞をはじめるとすぐに気がつくのが、ケースと生け花のボリュームのアンバランスさである。この作品はその典型。やたら立派なケースが仇になり、生け花の表現力を引き出すことに失敗している。

「大は小を兼ねる」と言わんばかりの過剰なケースの容量は、爛熟期を迎えた改札生け花界の迷走を示しているのか。

あるいは改札生け花ケース鑑賞家へのサービスのつもりなのかもしれないが、ケースはあくまで脇役。いまいちど自らの立ち位置を再確認してほしい、と苦言を呈したいと思う。嫌いじゃないけど。

地味ながら生け花改札ケース格付けトリプルAの作品たち
いくつか好ましい典型的なものを見てみよう。いずれも木のぬくもりを大事にした逸品だ。浮ついたところがまったくない。その落ち着いたたたずまいに身が引き締まる。

とはいえ、すだれはどうかと思う。(左から新千葉駅、玉名駅、日暮里駅)

考えてみれば、いま駅構内でこれだけ木製であることを前面に押し出した什器・設備も珍しいのではないだろうか。「天然の木材をふんだんに利用したケースからは大量のマイナスイオンが」とか適当なことを言って注目度を上げるのも一つの手かもしれない。

その堅牢な作りに世相がじわり(天王寺駅)

巧みな素材の使い分けもケースの見所のひとつ

一方、侘び寂を重視した作品が多い中、メタルなケースもある。昨今の駅構内での器物損壊事件多発のご時世にあって、生け花側もリスク管理を意識しはじめたということか。ちがいますか。そうですか。

巣鴨らしい、と言い切ってよいものか。(巣鴨駅)

おなじメタリックなものでも、こちらはひと味違う。その違いの理由はいささかぞんざいな作りの足にあるだろう。

こういうそっけもないケースで花の作品世界を展開するにはそれなりのテクニックが必要と思われる。それなりの歴史を持つ改札生け花。もしかしたらこういう過酷な条件下での生け方メソッドがあるのかもしれない。改札生け花ならではの花世界。

しかし、左の場合は、無機質なケースの貧相さに負けまいというメソッドに基づいた華やかな生けっぷりもむなしく、そもそもケース全体が右肩下がりである。無念。

巨大団地のメッカは、ケースもストイック(高島平駅)
サーファーのメッカ、茅ヶ崎はケースもビッグウェーブ(茅ヶ崎駅)

ハードとコンテンツの関係性を考える

このシンプルな作品も、よく見られるタイプのひとつである。

そろそろ改札生け花ケース鑑賞ポイントが分かってきたみなさんの目には、つつましやかな佇まいが好ましく映るかもしれない。

しかし、たしかに全てを白く塗ることでケースとしての存在を消し、生け花に集中していただこうということかもしれないが、それは「逃げ」ではないのか。

改札生け花ケースは、花の生け手にインスピレーションを与えるべきものではないのか。困難な状況をむしろ積極的に作品に取り込んで、あらたな作品世界を広げていってほしいものだと思う。いったい何の話だ。

そんななかで圧倒的な存在感と重厚感を感じさせるのがこのケース。

高さも2メートルほどあろうかというこのケースに対抗するには、ごらんの通り、おのずと生け花の方も前衛的にならざるを得ない。

改札生け花の「今」が見える、トレンド発信基地、茅ヶ崎。ちなみに、これが生け花として前衛的なのかどうなのかを判断できる知識をぼくは持ち合わせていません。

わが国における「ゴージャス」の限界

そして、今回ご紹介する中でもっともゴージャスなのがこのふたつ。ひとつは漆塗り、ひとつはライティングつき。

改札生け花にあるまじき果報な待遇。しかし、左は「金・銀・銅」の階段みたいになってる。オリンピックイヤーを意識してるのか。そうなのか。

ゴージャスと見えつつ「せっかくケースが豪華だから花いっぱい入れちゃおうよ」という庶民的な発想がかいま見えるのがほほえましい(左から小岩駅、京都駅)

そしてケースは、ケースを超える

そして今回ご紹介するものの白眉が、これらの作品である。

「これが白眉かよ」とおっしゃる方は、改札生け花鑑賞家としてはまだまだヒヨっ子である。「駅には生け花があるものだ」という思いだけが純粋な形態として現れた状態がこれらなのだ。

しかも右のは造花。だが、これは禅にある「死んで生きる」の実践と受けとめたい。駅構内での生け花の寛容さが伺える作品だ(左は鳩ヶ谷駅、右はどこの駅か忘れた)

ケースなんてなくてもいい。しょぼいイタリア料理屋のテーブルクロスみたいだっていい。そこに改札口があれば、そこがわたしのサンクチュアリ。

ケースがないことが逆説的に最も純粋なケースとなって立ち現れる。華道の神髄をここにかいま見る思いがする。

みなさまからのケース情報お待ちしています

改札生け花をめぐる旅はいかがだっただろうか。夏休み、大枚はたいて海外旅行とか行くより、改札生け花めぐりの方がよっぽど楽しいと思う。

ちなみにある駅の駅員さんに「あの生け花についておうかがいしたい」と訊ねたところ「どの花?」という対応だった。すでに駅員さんにすら意識されていない模様。つまりもはや我々日本人にとって改札生け花は空気のような存在なのかもしれない。

しかし、人は空気なしには生きていけない。きれいにまとめろと、誰が言った。

 

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