特集 2011年7月28日

うどん食べて大師のもとへ~遍路日記まとめ~

四国一周1200km(+α)を、無事踏破できました
四国一周1200km(+α)を、無事踏破できました
「なんで遍路をやろうと思ったのですか?」

歩き遍路に出て以来、そのような事を聞かれる事が度々あった。私はその度に答えに窮し、結局、こう答える。

「いやぁ、いつかは、歩き遍路に出る事になるんだろうなぁと、ずっと思っていたのですよ」

自分でも、何だその回答はと思う。しかし、本当にそのように言うしかないのだから、しょうがない。

以前から、いずれ遍路に出るんだろうなと思っていた。そして、ちょうど30歳になった今年、会社を辞めて自由な時間が取れるようになった。だから、遍路に出たのだ。
1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー)

前の記事:温かいお接待と冷たい橋の下~遍路日記まとめ~

> 個人サイト 閑古鳥旅行社 Twitter

最後は「涅槃の道場」こと香川県

2011年の4月29日に徳島県鳴門市の岡崎海岸から歩き始めた私の遍路は、二ヶ月を経て2011年6月30日に完結した。

その模様は「木村岳人のお遍路日記」にてリアルタイムにお伝えし、また県別のまとめとして、徳島編「歩き遍路はじめました」、高知編「風吹き荒び、雨打ちつける、怒涛の高知県」、愛媛編「温かいお接待と冷たい橋の下」といった記事も書かせていただいた。
あんな事もありましたし
あんな事もありましたし
こんな事もありましたね
こんな事もありましたね
「発心の道場」徳島県では疲れに体を蝕まれる中、MATCH漬けの日々で何とか生きながらえ、「修業の道場」高知県では風にテントを吹き飛ばされた。「菩提の道場」愛媛県では肌が黄色になるまでミカンを貪り食った。

……多少の誇張と脚色があるような気もするが、まぁ気にしないで頂きたい。そして今回は、いよいよ四国遍路最後の県、「涅槃の道場」こと香川県である。おやじ、涅槃で待つ。
66番札所の雲辺寺は徳島県だけど――
66番札所の雲辺寺は徳島県だけど――
その下山道は、もう香川県
その下山道は、もう香川県
下界は雲に覆われ不吉な予感
下界は雲に覆われ不吉な予感
やはり、今にも雨が降りそうなカンジ
やはり、今にも雨が降りそうなカンジ
そのような中、67番札所の大興寺に到着
そのような中、67番札所の大興寺に到着
正午前後に雲辺寺を出て延々と山道を下り、大興寺に着いたのは16時頃だ。

ところで、愛媛県ではたくさんの方々からお接待を頂き、また励ましていただいた。その温かいお気遣いは、物質面のみならず、精神面にも大いに助けられたものだ。

その温かな心の波は、愛媛県を脱し、香川県に入ってもなお健在であった。
お参りを終えて荷物の元へ戻ると――
お参りを終えて荷物の元へ戻ると――
私のザックの横に、ダカラがあった
私のザックの横に、ダカラがあった
もちろん、ザックを置いた時には無かったものだ。私がお参りをしている最中、どなたかが、そっと置いていって下さったらしい。

手に取ってみると、それは犯罪的なまでにキンキンに冷えていた。山道を歩き続け、汗を滝のように流した私にとって、何よりありがたいご褒美である。ダカラをお接待下さった顔も知らない方に手を合わせつつ、感謝しながら頂いた。

その後、大興寺を後にして程なく、私は大粒の激しい雨に見舞われた。雨に打たれながら観音寺市街地へ向かう途中、私は二人の読者さんとお会いし、お接待を頂いた。
お一人は、観音寺市中心部への遍路道沿いで
お一人は、観音寺市中心部への遍路道沿いで
もうお一人は、観音寺市の中心部で
もうお一人は、観音寺市の中心部で
いつ来るのか分からないであろう中、しかもただ立っているだけでも雨に濡れるような天気の中、お二人は私を待っていて下さった。

差し入れて頂いた品々も、観音寺のおまんじゅうや、女性がお嫁入りする際に配るという"おいり"というひなあられのような郷土菓子など、なんとも嬉しい品々。雨天行軍の辛さも吹き飛ぶ、大変ありがたいお接待である。

またこの日、私は香川県入りした区切りという事で、観音寺市内のホテルに泊まる事にしていた。部屋に入って間も無く、愛媛の伊予三島でラーメンをご馳走いただいた高橋さんから連絡があり、再度お会いする事になった。
それは、観音寺市内にある琴弾温泉へのお誘いだった
それは、観音寺市内にある琴弾温泉へのお誘いだった

思えば、温泉にばかり入っている

遍路を歩き始めて以来、私は温泉にばかり入っているような気がする。

基本的に野宿、宿はたまにしか取ることができないという制約上、入浴の機会というのはどうしても限られてしまう。寝る前に濡れタオルで体を拭いてはいるものの、やはり風呂に入るのとは、爽快感からして全く違う。

幸い、四国には膨大な数の温泉が存在する。日帰り入浴が可能な温泉を見つけては、私は喜び勇んで入っていたものだ。
温泉の看板を見つけては一人でニヤリ
温泉の看板を見つけては一人でニヤリ
うほうほ言いながら吸い込まれていく
うほうほ言いながら吸い込まれていく
入浴後には、もちろんコーヒー牛乳
入浴後には、もちろんコーヒー牛乳
温泉施設の周辺は、野宿に適した所も多い
温泉施設の周辺は、野宿に適した所も多い
お接待で、温泉の入浴券を頂いた事もあった
お接待で、温泉の入浴券を頂いた事もあった
松山では、もちろん道後温泉に入りましたよ
松山では、もちろん道後温泉に入りましたよ
今回の遍路で入った温泉を数えてみたら、合計で12ヶ所だった。私の人生史上、ここまで温泉密度の高い二ヶ月間は他に無い。

実は私は、これまで温泉にさして興味など無かった。しかし遍路で色々な温泉に入り、そのあまりの極楽っぷりに何度も昇天しかけた結果、すっかり温泉に魅了されてしまった。

温泉の効能とか、その泉質とか、源泉所在地まで気になる始末。四国は、旅行における新たな楽しみを私に与えてくれたのだ。
いったん広告です

一つのお寺に札所が二つ

さて、遍路に戻ろう。愛媛側から香川に入って、まず最初に訪れるのは観音寺市である。観音寺市にはその名の通り観音寺というお寺があり、四国遍路の札所となっている。

……が、その観音寺の境内には観音寺の他にもう一つ、神恵院(じんねいん)というお寺が存在し、それもまた札所なのだ。一つのお寺の境内に、二つの札所があるのである。
左奥の建物が68番札所である神恵院の大師堂で、右の建物が69番札所である観音寺の大師堂
左奥の建物が68番札所である神恵院の大師堂で、右の建物が69番札所である観音寺の大師堂
二つの札所が一つの境内に同居しているという事で、お参りには便利なのかもしれないけど、いかんせん、歩かないので達成感が無い。納経所も一つだし(そのくせ、納経料は二ヶ所分だし)、どうも残念な感じだ。

どうしてこんな事になってしまったのか。これまで遍路日記やまとめ記事をご覧になって頂いた方はピンとくるかもしれないが、恐らくまぁ、その通り。68番札所は元々ここではなく、お隣の琴弾八幡宮、つまり神社だったのである。
こちらが元68番札所の琴弾八幡宮
こちらが元68番札所の琴弾八幡宮
ところで、神恵院の本堂は、何か凄い外観
ところで、神恵院の本堂は、何か凄い外観
正確には、神社の中にお寺もあったという感じなのだけど(昔はそれが当たり前だった)、明治時代に「神社の中に寺があるのはダメじゃー!」というお触れが出て、琴弾八幡宮内もまたその境内にあるお寺的な要素が全て排除されてしまった。それが観音寺に拾われて、現在の形になったのである。

この神仏分離令は、地方では仏教排斥運動にまでエスカレートして、日本全国、数多くの文化財が打ち捨てられた。四国八十八箇所霊場においても、そのダメージは甚大なものだ。
観音寺から田園風景の中を5km弱歩き――
観音寺から田園風景の中を5km弱歩き――
70番札所、本山寺に到着
70番札所、本山寺に到着
一方、こちらの本山寺は、昔からの景観を留める貴重なお寺である。その境内には鎌倉時代の本堂(国宝)、室町時代の二王門(重要文化財)など、文化財も数多い。

古い歴史を持つ遍路であるが、意外にも四国八十八箇所霊場の中で国宝建造物を持つのはこの本山寺と、あと松山の石手寺、太山寺の三ヶ寺しかない。古いモノが残っている事が全てではないけれど、私は古いモノが好きなので、古いモノが残っている方がやはり嬉しい。

香川の昼食はうどん縛り

本山寺でお参りを終えたのは、ちょうどお昼の時間であった。

香川県に入るにあたり、私は一つの事を心に決めていた。香川県内での昼食は、必ずうどんにしようというものだ。

これまで私はソバ派であった。うどん屋とソバ屋が並んでいたら、間違いなくソバ屋に入っていた。しかし、讃岐のうどんはうまいと聞くし、その私の「ソバ>うどん」という認識を引っくり返してはくれまいかと思ったのだ。
まぁ、入ったのは、はなまるうどんだけどね
まぁ、入ったのは、はなまるうどんだけどね
うん、うどんも中々良いものだ
うん、うどんも中々良いものだ
実は私は、これまでチェーン店のはなまるうどんにすら入った事がなかった。徹底的に、うどん屋とは縁の無い人生を送ってきたのである。さて、讃岐うどんはどんなものかと食べてみたが……おぉ、うどんも中々良いものですな。

うまいし、安いし、量も多いし、腹持ちも良い。うどんは歩き遍路にぴったりな、理想的な食べ物といえるのではないだろうか。
うどんで力を付けたところでさらに進む
うどんで力を付けたところでさらに進む
険しい山にある、71番札所弥谷寺もなんのその
険しい山にある、71番札所弥谷寺もなんのその
水気の多い遍路道を下って――
水気の多い遍路道を下って――
72番札所の曼荼羅寺に到着
72番札所の曼荼羅寺に到着
さて、72番札所から次の73番札所の出釈迦寺までは、距離にしてわずか500メートル程度。

……が、出釈迦寺が現在の位置に移ったのは江戸時代の事で、それ以前はその奥にある我拝師山の上にあったという。
多分、登るのが億劫になって、麓に移したんだろうね
多分、登るのが億劫になって、麓に移したんだろうね
この山は、空海が7歳の時に修行を行い、その崖の上から身を投げた所、釈迦如来と天女が現れて助けられたという、なんとも伝説らしい伝説が残る聖地だそうだ。

ふむ、聖地とな。……となると、やはりその山の上まで行かぬワケにはいかんだろう。
73番札所、現在の出釈迦寺にお参りして
73番札所、現在の出釈迦寺にお参りして
険しい我拝師山の参道をヒーコラ登る
険しい我拝師山の参道をヒーコラ登る
45分程でかつての出釈迦寺に到着
45分程でかつての出釈迦寺に到着
空海が飛び降りたという場所にも登ってみた
空海が飛び降りたという場所にも登ってみた
山の上にある元の出釈迦寺は、現在では捨身ヶ嶽禅定(ぜんじょう)と呼ばれ 、出釈迦寺の奥の院という位置付けである。

そのお堂の奥からは、鎖でよじ登るような崖となり、さらにその上に空海が飛び降りたという場所がある。そこまでの道は、とても滑りやすくておっかなかった。

ひょっとしたら、幼少のお大師さんは、自らの意思で崖から飛んだのではなく、足を滑らせて落っこちちゃったんじゃないだろうか。そんな罰当たりな考えも頭によぎった。
引き続き、青空の水田地帯を行くと――
引き続き、青空の水田地帯を行くと――
74番札所の甲山寺が現れる
74番札所の甲山寺が現れる
善通寺市の市街地を抜け――
善通寺市の市街地を抜け――
空海生誕の地、75番札所の善通寺に到着
空海生誕の地、75番札所の善通寺に到着
この日の昼も、当然うどんを食べました
この日の昼も、当然うどんを食べました
ネギ&揚げ玉は無料なのが嬉しいね
ネギ&揚げ玉は無料なのが嬉しいね
いったん広告です

どんどん行きます、讃岐の路

市名になるくらい巨大で有力な寺院である善通寺へのお参りも済ませ、もはや日課となったうどんの昼食も食べ、私の遍路もいよいよ佳境に差し掛かったカンジだ。

ここまで来ると、88番札所の大窪寺まであとわずか。ゴールが間近に見えてくる。後は勢いに任せて、一気に歩いてしまうまでだ。
うだるような暑さの中、住宅街を進み――
うだるような暑さの中、住宅街を進み――
76番札所の金倉寺へ
76番札所の金倉寺へ
さらに北へと歩いて――
さらに北へと歩いて――
77番札所、道隆寺に着きました
77番札所、道隆寺に着きました
丸亀城の現存天守を横目に見つつ――
丸亀城の現存天守を横目に見つつ――
到着したるは78番札所の郷照寺
到着したるは78番札所の郷照寺
瀬戸大橋で有名な坂出市の商店街を歩き――
瀬戸大橋で有名な坂出市の商店街を歩き――
崇徳天皇を祀る神社内、79番札所高照院へ
崇徳天皇を祀る神社内、79番札所高照院へ
その後、遍路道沿いのうどん屋で食べたら――
その後、遍路道沿いのうどん屋で食べたら――
ここが、とんでもなくうまい店だった
ここが、とんでもなくうまい店だった
けしからん程に油断しすぎな猫を見つつ――
けしからん程に油断しすぎな猫を見つつ――
80番札所の讃岐国分寺へ
80番札所の讃岐国分寺へ
そこからは、山道を登り五色台の上へ出て――
そこからは、山道を登り五色台の上へ出て――
崇徳天皇の陵墓がある81番札所の白峯寺に
崇徳天皇の陵墓がある81番札所の白峯寺に
さらに五色台の遍路道を歩き――
さらに五色台の遍路道を歩き――
五色台の東端、82番札所の根香寺へ到着
五色台の東端、82番札所の根香寺へ到着
五色台を下りた鬼無(きなし)で――
五色台を下りた鬼無(きなし)で――
うどんを一杯、この日はヒヤで
うどんを一杯、この日はヒヤで
高松市内を南へ下り――
高松市内を南へ下り――
着いたのは83番札所の一宮寺
着いたのは83番札所の一宮寺
今度は高松市を北上――
今度は高松市を北上――
次の札所は源平の合戦で有名な屋島の上だ
次の札所は源平の合戦で有名な屋島の上だ
これがまたキツイ登りで死にそうになりつつ――
これがまたキツイ登りで死にそうになりつつ――
84番札所の屋島寺に到着
84番札所の屋島寺に到着
屋島を下りて立派な店でうどんを食ったが――
屋島を下りて立派な店でうどんを食ったが――
うまかったけど、ちょい少ない
うまかったけど、ちょい少ない
次もまた山の上――
次もまた山の上――
背後の山の形が面白い、85番札所の八栗寺
背後の山の形が面白い、85番札所の八栗寺
平賀源内の旧宅を横目に――
平賀源内の旧宅を横目に――
志度寺に着いた。86番札所!
志度寺に着いた。86番札所!
真っ直ぐ南へ突き進んだその先――
真っ直ぐ南へ突き進んだその先――
87番札所の長尾寺。いよいよ次でラスト!
87番札所の長尾寺。いよいよ次でラスト!
最後にふさわしく、88番札所は結構な山の上
最後にふさわしく、88番札所は結構な山の上
その遍路道も、なかなかに険しい
その遍路道も、なかなかに険しい
そして……おぉ、あれは!
そして……おぉ、あれは!
ついに到着、88番札所の大窪寺
ついに到着、88番札所の大窪寺
これにて結願(けちがん)!
これにて結願(けちがん)!
遍路を始めてから58日目、私はようやく88番札所の大窪寺にたどり着いた。

1番札所から88番札所まで、全ての札所を周り切る事ができた達成感からか、読経中にはジーンと胸に迫るものがあった。多分、涙声になっていたと思う。納経帳に「結願所」と朱印が押された時には、本当に感無量であった。

しかし、私の遍路はまだここでは終わらない。もう少しだけ、続くのである。
いったん広告です

88番札所から、スタート地点の1番札所へ

四国遍路は世界唯一の環状参詣道である。その道は環状、すなわち輪なのだ。しかし1番札所から88番札所まで周っただけでは、まだ一部が欠けている。完全な輪とは言えない。

そう、88番札所から1番札所に戻ってこそ、初めてその輪が閉じ、私の遍路は完成するのである。目指すは、徳島県鳴門市の霊山寺。
ところで、88番札所でお参りを済ませたら、カメラが壊れた
ところで、88番札所でお参りを済ませたら、カメラが壊れた
少し話が反れるが、88番札所の大窪寺でお参りを済ませた後、私のカメラが故障した。スイッチを入れても、電源が入らないのである。

これまでの約二ヶ月間、雨の日も風の日も、一緒に歩き続けてきた相棒である。ストラップが切れて地面に落とした事もあれば、雨に濡れた事も一度や二度ではない。よくぞこれまで耐えてくれた、そう思うばかりである。

……しかし、このタイミングでの故障には驚かされた。私は霊感とかスピリなんとかとか、パワースポなんとかとか、そういう言葉があまり好きではないのだけど、さすがにこれには人知が及ばぬ何かの意思を感じてしまったよ。
なので、以降の写真はiPhoneで撮ったものです
なので、以降の写真はiPhoneで撮ったものです
とりあえず、大窪寺から山道を東に進む
とりあえず、大窪寺から山道を東に進む
峠を越えて、遍路道を越えて――
峠を越えて、遍路道を越えて――
東かがわ市の市街地へ下りていけば――
東かがわ市の市街地へ下りていけば――
四国霊場総奥の院と称される、與田寺(よだじ)に到着
四国霊場総奥の院と称される、與田寺(よだじ)に到着
この與田寺のある三本松は、江戸時代には関西と交易が盛んな港町だった。故に、ここからも多くの遍路が四国に上陸していたという。

それらの遍路は、1番札所に向かう前にまずこの與田寺にお参りをし、また88番札所で結願した後にも再度この與田寺にお礼参りをして、三本松港から四国を後にしたそうだ。だから、四国霊場総の奥の院と呼ばれているらしい。

歴史的な裏付けがある以上、私もこの與田寺に寄らないワケにはいかない。なんとも意味不明な使命感であるが、まぁ、人が行動を起こす動機なんて、そんなものだろう。
三本松からは海沿いに東へ――
三本松からは海沿いに東へ――
徳島では植えたてだった稲も、随分伸びたね
徳島では植えたてだった稲も、随分伸びたね
一応、まだ香川県内なので、昼食はうどん
一応、まだ香川県内なので、昼食はうどん
かけうどんであっても、具のある事の幸せ
かけうどんであっても、具のある事の幸せ
色使いが印象的な引田の町並みを見つつ――
色使いが印象的な引田の町並みを見つつ――
最後の遍路道、県境の大坂峠を越えれば――
最後の遍路道、県境の大坂峠を越えれば――
二ヶ月ぶりの1番札所、霊山寺に到着
二ヶ月ぶりの1番札所、霊山寺に到着
霊山寺でのお参りを済ませ、納経所に置いてある「徒歩順拝者名簿」に結願の日付を記入した。これにて、環状参詣道の輪を閉じる事ができ、私の遍路は完成したというワケだ。

四国遍路は一周の距離が約1200kmだという。いや、寄り道を含めたら、もっと歩いただろう。自分で言うのもなんであるが、よくもまぁ、歩き通せたものである。しかも、怪我をする事も無く、病気になる事も無く。

そう、無事遍路を終える事ができた。その事についてお礼を述べる為、もう一箇所、行かねばならない場所がある。聖地、高野山である。

最後に行くは、空海がおわす高野山奥の院

高野山において、空海はまだ生きている存在である。高野山の奥の院で、永遠の瞑想を続けているとされるのだ。

無事結願する事ができた遍路は、最後に高野山へと参り、お大師さんに報告とお礼を述べなければならない。高野山の奥の院こそが、四国遍路の最終目的地なのである。
霊山寺から、初日に通った道を逆に歩く
霊山寺から、初日に通った道を逆に歩く
この駅で、マッチョな人が弁当持って待っているかと思ったけど、そんな事はなかったぜ
この駅で、マッチョな人が弁当持って待っているかと思ったけど、そんな事はなかったぜ
吉野川を渡って徳島市中心部へ
吉野川を渡って徳島市中心部へ
徳島城の中を通り――
徳島城の中を通り――
和歌山へのフェリーが出る、徳島港へ
和歌山へのフェリーが出る、徳島港へ
徳島から離れていくフェリー
徳島から離れていくフェリー
さらば、そしてありがとう、四国
さらば、そしてありがとう、四国
和歌山港から、ただひたすら高野山を目指す
和歌山港から、ただひたすら高野山を目指す
和歌山市街地を抜け――
和歌山市街地を抜け――
田園地帯を歩き――
田園地帯を歩き――
吉野川を渡り――
吉野川を渡り――
高野山の表参道である町石道を登り――
高野山の表参道である町石道を登り――
途中で丹生都比売神社に寄ったりしながら――
途中で丹生都比売神社に寄ったりしながら――
さらに町石道を行き――
さらに町石道を行き――
しつこく町石道を歩くと――
しつこく町石道を歩くと――
ようやく、高野山の入口である大門に到着
ようやく、高野山の入口である大門に到着
高野山は、盆地に広がる町全体がお寺みたいな所である。その盆地の西端、町の正門に位置しているのがこの大門だ。

高野山は、信仰の中心である壇上伽藍(だんじょうがらん)を核として、その隣に真言宗総本山の金剛峰寺があり、さらにその周囲を数々の子院が取り囲んでいる。

そして、盆地の東端、まさに高野山の奥といった位置に存在するのが、奥の院である。
壇上伽藍と金剛峰寺にお参りし――
壇上伽藍と金剛峰寺にお参りし――
奥の院へと向かう
奥の院へと向かう
そして、弘法大師にご報告。ありがとうございました!
そして、弘法大師にご報告。ありがとうございました!

二ヶ月間、とにかく楽しかった

歩き遍路を始めてちょうど60日目、私は高野山にて遍路を終える事ができた。改めて思い返してみると、肉体的、精神的にキツい事も多かったけど、やっぱり楽しかった。遍路道を歩きながら、色々見たり、聞いたり、なんか食べたり。とても有意義な二ヶ月間だったと思いますな。

少しでも遍路に興味がある方は、ぜひ遍路に出てみると良いですよ。バイクや自転車でもいいけど、やっぱり遍路文化にどっぷり漬かるには、歩きが一番オススメですな。歩かないと見えない事も、結構あると思いますし。

通し打ち(全行程を一気に歩く)などでなくても、休暇が取れる範囲で区切り打ち(何回かに分けて歩く)をしてみるとか、いろいろやり様はあると思います。気張らず、気楽に、自分のペースで行くのがよろしいかと。

かく言う私も、既にまた遍路に行きたくなっていたりします。次には、それぞれの札所の奥の院や、四国別格二十霊場なども周りたいなぁなどと、地図を見ながらニヤニヤしている始末。こりゃぁ、重症だね。
高野山奥の院にお参りした後、なぜかカメラが直った。一体何なのだ、このタイミングは。88番札所から高野山までの間に、私に撮らせたくないものがあったとでもいうのだろうか……?
高野山奥の院にお参りした後、なぜかカメラが直った。一体何なのだ、このタイミングは。88番札所から高野山までの間に、私に撮らせたくないものがあったとでもいうのだろうか……?
▽デイリーポータルZトップへ

banner.jpg

 

デイリーポータルZのTwitterをフォローすると、あなたのタイムラインに「役には立たないけどなんかいい情報」がとどきます!

→→→  ←←←
ひと段落(広告)

 

デイリーポータルZは、Amazonアソシエイト・プログラムに参加しています。

デイリーポータルZを

 

バックナンバー

バックナンバー

▲デイリーポータルZトップへ バックナンバーいちらんへ