特集 2018年1月11日

琵琶湖疏水の船下り試乗会に参加した

紅葉の季節、琵琶湖疏水を船で下ってきました
紅葉の季節、琵琶湖疏水を船で下ってきました
大津市から京都市の山科(やましな)、蹴上(けあげ)を経て鴨川へと至る「琵琶湖疏水(びわこそすい)」が存在する。明治時代に入り、首都が東京となったことにより衰退していた京都の産業復興と近代化を推し進める為、飲用水、工業用水、農業用水、そして船運を確保すべく明治18年(1885年)から明治23年(1890年)にかけて築かれた琵琶湖を水源とする水路である。

その水の流れは現在も様々な用途に使われているが、船運に限っては陸上交通の発達によって衰退し、昭和初期に途絶えたままであった。……のだが、なんと2018年春より観光船として船運が復活することになったという。

その事業開始に先立ち、京都市職員の方から「新しい船が完成したので関係者を招いて試乗会をするのですが、よろしければ参加しませんか?」というご連絡を頂いた。琵琶湖疏水に少なからずの思い入れがある私は、もちろん二つ返事である。
1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー)

前の記事:早春の檜枝岐村に見るフキノトウのたくましさ

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乗船場は大津閘門(こうもん)

私は古い道や水路を辿るのが好きだ。中でも琵琶湖疏水はお気に入りで、これまで当サイトにも「琵琶湖疏水をたどって京都まで」「琵琶湖疏水を巡る、産業観光モニターツアーに参加した」と、琵琶湖疏水に関する記事を二本書かせて頂いている。

琵琶湖疏水の船下りに関しても、近年不定期で試行事業を実施していることを知ってはいたのだが、いかんせん毎回相当な高倍率で参加することは叶わなかった。そのような中、降って湧いた試乗会へのお誘いに、私はまるで遠足を待つ小学生のようにワクワクしながら当日を迎えたのであった。
というワケで大津に参上! 琵琶湖疏水はここから始まるのだ
というワケで大津に参上! 琵琶湖疏水はここから始まるのだ
取水口から石積みの水路を辿っていくと――
取水口から石積みの水路を辿っていくと――
大津閘門と制水門に差し掛かる。ここが乗船場への入口だ
大津閘門と制水門に差し掛かる。ここが乗船場への入口だ
門の前で受付を済ませ、疏水事業所の敷地内に突入である
門の前で受付を済ませ、疏水事業所の敷地内に突入である
程なくして集合時間となり、待合室を兼ねている建物で軽くオリエンテーション
程なくして集合時間となり、待合室を兼ねている建物で軽くオリエンテーション
それにしても、参加者は皆さん背広にコートという出で立ちだ。ラフな格好なのは私だけで、ちょっと浮いた感じである。関係者を招いての試乗会なだけあって、仕事で来ている方がほとんどなのだろう。

しかしそのようなカッチリとしたメンツを前にしても、ガイドさんは砕けた口調で説明を進めていく。おそらくガイドさんとしては、今回の試乗会は春からの本番を前にしたリハーサルでもあるのだろう。
ガイドさんに先導され、いざいざスタートだ
ガイドさんに先導され、いざいざスタートだ
いつもは対岸の橋から眺めるだけだった大津閘門の上を渡る
いつもは対岸の橋から眺めるだけだった大津閘門の上を渡る
普段は立ち入れない場所からの眺めに、テンションだだ上がりである
普段は立ち入れない場所からの眺めに、テンションだだ上がりである
琵琶湖疏水は琵琶湖の水位に関わらず安定した量の水を流せるよう制水門が設けられている。しかしそのような堰を設けると今度は船が通れなくなってしまう為、前後二基の水門によって水位を調節できる閘門を併設し、船の通行を可能としているのだ。――という旨の説明を聞きつつ、疏水の横を歩いていく。
疏水に沿って桜並木が続いており、春には花見の名所となるようだ
疏水に沿って桜並木が続いており、春には花見の名所となるようだ
そしてその突き当りには、長等山を貫く琵琶湖疏水第1トンネルの洞門が!
そしてその突き当りには、長等山を貫く琵琶湖疏水第1トンネルの洞門が!
いやはや、こうして洞門を目の前にしてみると、新古典風の重厚なたたずまいで迫力満点だ。以前、疏水沿いの道路から見下ろした時には随分と小さく見えたものだが、それは疏水のスケール差による錯覚に過ぎなかった。

洞門には随分とイカツイ鉄扉が備え付けれているが、これは明治29年(1896年)の大雨によって琵琶湖の水位が大幅に上昇したことを受け、万が一閘門が壊れた際に大量の水が京都市内へ流れ込むことを防ぐために設置したという。その後、琵琶湖から流れる瀬田川の整備が進んだことで氾濫の危険性はなくなり、今日までこの鉄扉を使用することは一度もなかった。いわば“開かずの門”ならぬ、“閉めずの門”とのことである。
以前は全く分からなかった扁額も、この距離なら見える
以前は全く分からなかった扁額も、この距離なら見える
洞門の上部に掲げられている扁額には「様々に変化する風光はすばらしい」という意味の「気象萬千(きしょうばんせん)」という四文字が刻まれているのだが、これはなんと伊藤博文の揮毫によるものだという。明治前期の一大土木事業なだけあって、関わった人物も錚々たるものである。
洞門の手前上部には、荷下ろしの為の平場が設けられている
洞門の手前上部には、荷下ろしの為の平場が設けられている
この石積で築かれた平場の存在は、上から見た時には全く気付きもしなかった。ガイドさんの説明により今回初めて知ったものである。やはりガイド付きのツアーだと、新たな気付きや発見があるものだ。

さてはて、陸上での説明はこれで終わり。いよいよ船に搭乗し、琵琶湖疏水を下るのだ。大津から蹴上まで、約7.8kmの船旅である。
完成したばかりの「へいせい号」、客席数12のボートである
完成したばかりの「へいせい号」、客席数12のボートである
船上での注意事項とライフジャケット装着方法のレクチャーを受けてからいざ乗船。ガイドさんが「一番に乗りたい方はいますか?」と聞いてきたので真っ先に手を上げた。

……実をいうと、ご連絡を頂いた京都市職員さんから「ガイドさんが一番先に乗りたい人を聞いてくるので、すぐ手を上げると最前席に座れますよ」と予め知恵を頂いていたのだ。お陰様で、最前の特等席を確保することができた。
座席にはライフジャケットと寒さ対策のブランケットが用意されている
座席にはライフジャケットと寒さ対策のブランケットが用意されている
スタッフさんに見送られながら、ボートは出発した
スタッフさんに見送られながら、ボートは出発した
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琵琶湖疏水第一トンネルクルーズ

さてはて、いよいよ始まった琵琶湖疏水の船下り。まず最初に待ち構えているのは、当然ながら先ほど見た洞門より始まる第一トンネルである。

未知の領域に少しだけ緊張しつつ、ボートは100年以上前に掘られたトンネルの内部へと進んでいく。
第一トンネル突入! テンションが最高潮に達した瞬間である
第一トンネル突入! テンションが最高潮に達した瞬間である
まず最初に驚いたのは、出口の光が見えるということだ
まず最初に驚いたのは、出口の光が見えるということだ
この第一トンネルは大津と山科を隔てる長等山を貫いている。全長2436mとかなりの距離があるのだが、入口から出口の光が見えることにビックリした。このトンネルが山を一直線に掘り抜いていること、および暗闇における光の強さを実感した次第である。

またトンネルの内部が意外と汚れていないことにも驚かされた。水路ならではの少し独特な匂いはするものの、トンネルの壁は総じてキレイである。もっとも、これは船下り事業を興すにあたり、高圧洗浄で清掃したからのようであるが。
トンネル内部の右側にはロープのような線が二本続いている
トンネル内部の右側にはロープのような線が二本続いている
ガイドさんによると、この二本の線のうち上のものは電気を通していたケーブルで、下のものは京都から大津へと流れに遡って行く際に船を曳く為のロープとのことである。船運が途絶えて久しいながらも、船運の為の設備が残っていることに感動だ。

さてはて、ボートは出口の光に向かって進んでいくものの、見える景色は先ほどからまったく変わらない。まぁ、2km以上あるのだから、当然と言えば当然であるが。……そんなことを考えていたところ、ふと前方からチョロチョロと水が落ちるような音が聞こえてきた。
トンネル内に湧き水が噴出しているのである
トンネル内に湧き水が噴出しているのである
山を貫くトンネルとなると、途中で水脈の一つや二つにぶち当たることとなるのだろう。トンネルの壁には排水の為の穴が穿たれているようで、あちらこちらからからこのように水が噴き出していた。現在のような重機などない明治時代前期、湧き水の出るトンネル工事は想像を絶する過酷さだったに違いない。

やがてボートは「中央」と記されたタグのある地点に差し掛かった。どうやらトンネルの半分を通り過ぎたようである。と、その少し先で、ガイドさんに右側の壁に注目するよう促された。
すると、何やら窪みのようなものが現れた
すると、何やら窪みのようなものが現れた
そこには……文字が刻まれた扁額が!
そこには……文字が刻まれた扁額が!
少々ブレてしまったが、なんとか四文字見ることができた
少々ブレてしまったが、なんとか四文字見ることができた
これは琵琶湖疏水を発案した当時の京都府知事、北垣国道による揮毫だそうで「寶祚無窮(ほうそむきゅう)」と刻まれている。「皇位は永遠である」という意味らしい。

それにしても、こんなトンネルの真ん中に扁額が掲げられているとは驚きだ。かつて船が行き来していた頃は、船員がかがり火の中で眺めていたのだろうか。船運が途絶えてからは、誰にも見られることなく暗闇の中にひっそり存在し続けていたことを考えるとなんだか泣けてくる。船運の復活により、この扁額が再び日の目を見ることになるのは実に喜ばしいことだ。
しばらく進んでいくと、前方に壁が黒い帯のようになっている部分が見えた
しばらく進んでいくと、前方に壁が黒い帯のようになっている部分が見えた
天井に穴が開いており、水が滝のように落ちているのだ
天井に穴が開いており、水が滝のように落ちているのだ
地上に繋がっている、第一竪坑である
地上に繋がっている、第一竪坑である
ちなみに地上から見る第一竪坑はこんな感じ
ちなみに地上から見る第一竪坑はこんな感じ
この琵琶湖疏水第一トンネルはトンネルの両端からのみ掘り進めるだけでなく、深さ47mの竪坑を掘って内側からも掘り進めるという「竪坑方式」が採用された。この工法によるトンネルは、鉱山の坑道以外では日本初だという。

雨でもないのに流れ落ちている水は湧き水で、その量はシーズンによって変動するそうだ。まるで滝のような湧き水が噴き出す中、手掘りで掘削していたというのだから凄まじいものである。実際、殉職者も多かったようだ。
さらに進むと、再び天井に穴が
さらに進むと、再び天井に穴が
深さ20mの第二竪坑、現在は民家の敷地内にある
深さ20mの第二竪坑、現在は民家の敷地内にある
第一トンネルの西口近くにある第二竪坑は、トンネルを掘り進める為の第一竪坑とは違い、採光と換気の為に掘削されたという。第一竪坑よりも規模が小さく、湧き水もないのでかなり地味な印象だ。いちおう上を向いて竪坑の写真を撮ろうと試みたものの、一瞬で通り過ぎてしまい失敗してしまった。
第二竪坑を通過すると、程なくして出口だ
第二竪坑を通過すると、程なくして出口だ
何だか随分と久しぶりにシャバに出たような感じである
何だか随分と久しぶりにシャバに出たような感じである
出発から約20分で第一トンネルを抜けた。北垣国道の扁額に水が落ちる竪坑など、トンネル内に入らなければできない体験を満喫でき、既に物凄い満足感である。しかし琵琶湖疏水は始まったばかり、琵琶湖疏水の船下りはまだまだ続くのだ。
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紅葉の山科盆地をボートで進む

大津から第一トンネルを抜けるとそこは山科だ。ここから琵琶湖疏水は盆地北側の山裾に沿って続いていく。
美しい石積を眺めながら進んでいくと、前方に水門のような施設が現れた
美しい石積を眺めながら進んでいくと、前方に水門のような施設が現れた
阪神淡路大震災を契機に設置された、緊急遮断ゲートとのことである
阪神淡路大震災を契機に設置された、緊急遮断ゲートとのことである
以前に琵琶湖疏水を辿った時には何の施設か分からずスルーしていたが、ガイドさんの話によると大地震が起きて堤防が決壊した際に自動で流水を停止させる装置とのことだ。内部に仕込まれたゲートは下からでないと見られないそうで、これもまた船下りならではの特典である。
琵琶湖疏水には橋が数多く架けられている
琵琶湖疏水には橋が数多く架けられている
煉瓦造の土台も間近に見られるのが嬉しい
煉瓦造の土台も間近に見られるのが嬉しい
琵琶湖疏水に架かる橋は、いずれも土台を盛って疏水より高く築かれている。これはもちろん、荷物を載せた船が通れるようにする為の配慮だ。ことごとく、船運を意識した作りである。
紅葉を眺めていると、やがて四ノ宮船溜まりに到着した
紅葉を眺めていると、やがて四ノ宮船溜まりに到着した
広々とした船の停泊スペースにはサギの姿も見られる
広々とした船の停泊スペースにはサギの姿も見られる
この船溜まりから先もかつては山沿いに疏水が築かれていたのだが、JR湖西線の建設によって流路の変更を余儀なくされ、昭和45年(1970年)に山を抜ける520mの諸羽トンネルが築かれた。
明治の第一トンネルと比べると、装飾が無くて素っ気ない印象である
明治の第一トンネルと比べると、装飾が無くて素っ気ない印象である
ちょうど風の通り道になっているらしく、物凄い向かい風で寒かった
ちょうど風の通り道になっているらしく、物凄い向かい風で寒かった
諸羽トンネルを抜け、疏水は再び開渠となる
諸羽トンネルを抜け、疏水は再び開渠となる
疏水の岸には船の繋留に関する構造物が連なっている
疏水の岸には船の繋留に関する構造物が連なっている
さらに進んだところで、ガイドさんが「ちょっと耳を澄ましてみて下さい、川の音が聞こえませんか?」と訊ねてきた。

正直、ボートのエンジンや疏水の音にかき消されて全く分からなかったのだが、ガイドさんが言いたいことはすぐに分かった。そうだ、確かこの辺りで疏水と川が立体交差するのであった。
以前に琵琶湖疏水を歩いた時は事前情報がなく、川の交差点に驚いたものだ
以前に琵琶湖疏水を歩いた時は事前情報がなく、川の交差点に驚いたものだ
この交差部に築かれている煉瓦橋も非常に立派なものなのだが、残念ながら船の上からでは橋はおろか川の存在さえ感じられない。

たぶん私以外の乗客は、疏水の下を川が通っていると聞いてもイマイチピンとこなかったのではないだろうか。過去に琵琶湖疏水を歩いた経験が活きた感じである。
この辺りは紅葉が非常に美しい
この辺りは紅葉が非常に美しい
何やらカツンと音がしたと思ったら、どんぐりが落ちていた
何やらカツンと音がしたと思ったら、どんぐりが落ちていた
うむ、この季節ならではの風情である。疏水には落ち葉が舞い、イカダのように流れていく。船下り事業が始まる春には今度は桜が咲き乱れ、疏水が薄桃色で染まるのだろう。想像しただけで絶景である。
ボートは疏水沿いを歩く人々から注目の的だ
ボートは疏水沿いを歩く人々から注目の的だ
皆ボートを見るなり足を止め、写真を撮ったり手を振ったりしてくれる
皆ボートを見るなり足を止め、写真を撮ったり手を振ったりしてくれる
山科の琵琶湖疏水沿いは遊歩道として整備されており、通行人の姿が多い。いつも散歩で歩いているような地元の人でも、疏水を下ってくる船を見ることは滅多にないのだろう。

反応は総じて良く、ボートに乗っているだけのこちらもなんだか誇らしく思えてくるから不思議なものだ。私は今、琵琶湖疏水における船運復活の現場に立ち会っている、そんな感じがした。
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歴史的な土木遺産を眺めつつ蹴上へ

さて、船下りもそろそろ終盤である。山科西部から蹴上にかけては明治の建造物が集中して残っており、いずれも近代土木遺産として高く評価されている。
引き続き、紅葉を楽しみながら疏水を下っていく
引き続き、紅葉を楽しみながら疏水を下っていく
やがて差し掛かったのが「山ノ谷橋」だ
やがて差し掛かったのが「山ノ谷橋」だ
この緩やかなアーチが特徴的なコンクリート橋は「10号橋」とも呼ばれ、明治37年(1904年)に築かれたものである。今も谷奥に鎮座する永興寺への参道として現役なのだから凄いものだ。
その奥には第二トンネルが我々を待ち受けている
その奥には第二トンネルが我々を待ち受けている
第一トンネルと同様、第二トンネルの洞門にも扁額が掲げられている。大臣を務めていた井上馨による揮毫で、「仁以山悦智為水歓(じんはやまをもってよろこび、ちはみずのためによろこぶ)」と縦書きで刻まれている。その意味は「仁者は動かない山によろこび、智者は流れゆく水によろこぶ」とのこと。山を見るのも川を見るのも好きな私はどうなのだろうか。

第二トンネルの長さは124m。短め目のトンネルなので、入ったと思ったらあっという間に出口となった。
出口は上部が尖った尖頭アーチとなっており、まるでゴシック建築のようだ
出口は上部が尖った尖頭アーチとなっており、まるでゴシック建築のようだ
右手には日ノ岡取水場という水道施設が現れた
右手には日ノ岡取水場という水道施設が現れた
この取水場は琵琶湖疏水の水を約4km南の新山科浄水所へ送る為の施設である。といっても、この船で下っている水路から取水しているのではなく、もう一本の琵琶湖疏水から取水している。

実は琵琶湖疏水は二本存在し、船で下っているこの水路は第一疏水である。日ノ岡取水場が取水しているのは、第一疏水に並走する第二疏水からだ。

第二疏水は明治41年(1908年)から明治45年(1912年)にかけて築かれたもので、その全域がトンネルおよび暗渠となっている。地上に露出しているのは取水口と蹴上の合流地点だけだ。同じ明治時代の疏水であっても、前期と後期では土木技術に差があるものである。
日ノ岡取水場を過ぎたところには「日ノ岡橋」と第三トンネルの洞門が
日ノ岡取水場を過ぎたところには「日ノ岡橋」と第三トンネルの洞門が
この橋は「10号橋」とも呼ばれている。なんとも質素な感じであるが、実は明治36年(1903年)に築かれた、日本初の鉄筋コンクリート橋だというから凄いものだ。現在は鉄製の補強と手摺が設けられているが、目の粗いザラっとした質感のコンクリートには確かな歴史が感じられる。
その側には「本邦最初鐵筋混凝土橋」と刻まれた石碑が立つ。コンクリートを“混凝土”と書くとは、コンクリートの本質に沿った実にセンスある当て字である
その側には「本邦最初鐵筋混凝土橋」と刻まれた石碑が立つ。コンクリートを“混凝土”と書くとは、コンクリートの本質に沿った実にセンスある当て字である
そんなことに感心しつつ、ボートは第三トンネルへと入っていく
そんなことに感心しつつ、ボートは第三トンネルへと入っていく
ちなみに第三トンネルの扁額は、やはり大臣を務めていた松方正義による揮毫で「過雨看松色(かうしょうしょくをみる)」と刻まれている。その意味は「時雨が過ぎると、いちだんと鮮やかな松の緑をみることができる」とのことだ。なるほど、という感想である。
第三トンネルの長さは850m。内部の様子は他のトンネルとあまり変わらない
第三トンネルの長さは850m。内部の様子は他のトンネルとあまり変わらない
トンネルを抜けると、そこは蹴上の下船場だ
トンネルを抜けると、そこは蹴上の下船場だ
名残惜しいが、船下りはこれにて終了である。大津から約50分の船旅であった
名残惜しいが、船下りはこれにて終了である。大津から約50分の船旅であった
ボートが下船場である九条山浄水場に接岸し、ガイドさんと操縦士さんにお礼を述べて下船する。しかしお楽しみはこれで終わりではない。この下船場にも、まだ見るべきものが残っているのである。
それは明治45年(1912年)建造の「旧御所水道ポンプ室」である
それは明治45年(1912年)建造の「旧御所水道ポンプ室」である
旧東宮御所などの設計で著名な片山東熊によって築かれた水道施設だ
旧東宮御所などの設計で著名な片山東熊によって築かれた水道施設だ
ぐへぐへと奇声を発しながら、隅から隅まで堪能させて頂きました
ぐへぐへと奇声を発しながら、隅から隅まで堪能させて頂きました
近くには、同時代に築かれたと思われる建物(休憩室?)も残る
近くには、同時代に築かれたと思われる建物(休憩室?)も残る
乗船場であった大津閘門と同様、下船場の九条山浄水場もまた普段は立ち入れない場所である。琵琶湖疏水を全力で体感できるのみならず、いつもは遠目で見るだけであった片山東熊の建築をこうして間近で見ることができるとは。まさに一粒で二度おいしい、大満足な船下りツアーであった。

桜の季節にまた乗りたい

以前より、いつか琵琶湖疏水を船で下ってみたいと夢想していたものであるが、まさか本当に実現する日が来るとは思ってもいなかった。しかも想像していたより遥かに楽しく、見所も豊富で実に感無量である。

奇しくも2018年は明治150年にあたり、明治時代に築かれた琵琶湖疏水にも注目が集まることだろう。船下りは琵琶湖疏水を丸ごと体感できるアトラクションとしてオススメだ。

いよいよ本格的に実施される琵琶湖疏水の船下り事業であるが、本番も今回の試乗会と同様の大津から蹴上に下るコースの他、蹴上から大津への上りコースもあるようだ。実施時期は通年ではなく春と秋を中心に年間82日営業とのこと。桜や紅葉の時期、ゴールデンウィークには毎日運航される予定らしい。詳しくは下記リンクをご参照ください。

琵琶湖疏水通船復活
蹴上から京都駅に向かう途中、京都市営地下鉄にも「琵琶湖疏水通船復活」の広告が出ていた
蹴上から京都駅に向かう途中、京都市営地下鉄にも「琵琶湖疏水通船復活」の広告が出ていた
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