特集 2015年3月13日

細長すぎる大阪市領土と古墳カーブの謎

幅は数m・長さが620mのほそながーい大阪市が松原市に食い込んでいる。
幅は数m・長さが620mのほそながーい大阪市が松原市に食い込んでいる。
以前から気になっていた2つの謎の道路がある。

ひとつは大阪は松原市に川を越えてまで食い込む、異常に細長い大阪市の領土。もうひとつは同じく大阪の堺市にある「古墳カーブ」が残る住宅街の道だ。

念願かなって先日見に行くことができたので、その様子をご覧頂き、その謎解きを聞いてもらおう。聞いてください。
もっぱら工場とか団地とかジャンクションを愛でています。著書に「工場萌え」「団地の見究」「ジャンクション」など。(動画インタビュー

前の記事:世界一長い高速道路トンネルを歩く

> 個人サイト 住宅都市整理公団

参道のせいです

ほそながーい大阪市の細長っぷりは地図で見ていただくのが早い。一目瞭然だ。
グレーに網掛けしてある部分が松原市。南北を貫くように細長くなっている部分は大阪市。
すごいよねこれ! はじめて知ったときはぼくもびっくりした。

なんでこうなっているか。結論を先に言うと、これは阿麻美許曾神社(あまみこそじんじゃ)という神社の参道なのだ。
細長い部分の北には神社がある。図解するとこういうことです(OpenStreetMapをキャプチャ・加筆加工/(c)OpenStreetMapへの協力者)
細長い部分の北には神社がある。図解するとこういうことです(OpenStreetMapをキャプチャ・加筆加工/(c)OpenStreetMapへの協力者)
神社とか寺とか持ち出すとなんとなく納得しちゃうが、よく考えると「参道だから別の市になっている」というのは理由になっているようでなっていない。

ちゃんとした説明は後述するが、ポイントは神社の背後に流れる大和川である。
神社の北を東西に流れる大和川。じつはこれ人工の川なのだ。
神社の北を東西に流れる大和川。じつはこれ人工の川なのだ。

説明はあとにします

ともあれまずはこのほそながーい大阪市を歩いてみよう。ここを訪れるのが長年の夢だったのだ。うれしい。

うれしいのだが、この日は雨だった。以下鉛色の風景が続くがご容赦いただきたい。画像は冷たく濡れそぼっているが、ぼくのハートはうきうきしてた。
神社境内から南を向いた様子。見えるこの道が大阪市で両側は松原市というわけだ。
神社境内から南を向いた様子。見えるこの道が大阪市で両側は松原市というわけだ。
神社を出て少し南へ行き振り返るとこんな。図中矢印に示すように見ている。道路的にはメインの通りはここで右へ逸れて橋へと通じている。
神社を出て少し南へ行き振り返るとこんな。図中矢印に示すように見ている。道路的にはメインの通りはここで右へ逸れて橋へと通じている。
このように北の神社からスタートして南下していきます。

それにしても、毎回この手の記事を書くたびに苦労する。風景と地図を一致させて説明するのってすごく難しい。

つたない図示だが、上の写真にあるように矢印で見ている位置と方角を示していくので、がんばって読み取ってください。
参道の西側から南北を180度パノラマで見たところ。オレンジ部分が大阪市。それ以外は松原市。
参道の西側から南北を180度パノラマで見たところ。オレンジ部分が大阪市。それ以外は松原市。
上の写真を見ていただくと分かるが、細長大阪市エリアと道路は少しずれている。道路の中央に境界線が来ていて、東に建物一軒分シフトしているのだ。
地図拡大すると分かりますが、こういう感じです。道路に面した東側の家々は大阪市。道路西半分は松原市。
なのでこういうことになる。
なのでこういうことになる。
当然ながら行政界は目に見えないので、こうやって写真に色付けないと分からない。しかし、上の写真の建物の後ろにまわってみたら地面にかろうじてここが境界線である証拠らしきものがあった。
敷地境界を示す鋲がやたら打ってあった。つまりこういうことなんだと思う(たぶん)。
敷地境界を示す鋲がやたら打ってあった。つまりこういうことなんだと思う(たぶん)。
これを発見したときぼくは「おおっ!」って思ったんだけど、いま見るとすごく地味だな。やっぱり地図・地形の話は伝わりづらいな。どうしたらいいんだ。
東側に1軒分大阪市領土のエリア。建物に貼られた街区表示板を見ると…
東側に1軒分大阪市領土のエリア。建物に貼られた街区表示板を見ると…
確かに「東住吉区」(大阪市)とある!
確かに「東住吉区」(大阪市)とある!
道の反対側に立っているこのミラーを見ると…
道の反対側に立っているこのミラーを見ると…
松原市だ!
松原市だ!
ほら、な!

って思ったけど、やっぱり「だからなんだ」って感じだなこれ。要するにこれって「地図の通りですねー」ってことなわけだ。

どうやってこの面白さと感動をお伝えしたものか。って、原稿書きながら考えるなって話ですが。
あと、東側のこの敷地はおあつらえ向きに大阪市の公的なものだった。墨痕鮮やか「東住吉」の文字に感動した。感動したんですぼくは。
あと、東側のこの敷地はおあつらえ向きに大阪市の公的なものだった。墨痕鮮やか「東住吉」の文字に感動した。感動したんですぼくは。
なんかこれ以上事例を挙げてもよくわからなそうなので、細長エリアの一番突端、南端に行ってしまおう。
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だいじょうぶかな、どなたかこの2ページ目まで進んでくれてるかな。

ともあれ、この細長大阪市は620mほどで、信号2つ分の長さ。すぐに終わりに到達してしまう。ぼくはじっくり歩いて1時間半ぐらいかかったけど。
こういう感じです。
こういう感じです。
で、地図を見ていただいておわかりと思うが、ところどころ東側に大阪市エリアが出っ張っている。一番突端がその典型だ。
突端の先から北野方角、神社方向を見たところ。向かって右の3階建てのビルだけが大阪市。
突端の先から北野方角、神社方向を見たところ。向かって右の3階建てのビルだけが大阪市。
表示も出っ張ったところで変わっている!
表示も出っ張ったところで変わっている!
おそらくこの参道が大阪市に属するとなったときに、道路に面した土地所有者たちが「おれは松原市」「わたしは大阪市に」と意思表明した結果なのだと思う(そういう経緯例を他の飛び地で聞いたことがある。詳しいことご存じの方がいたら教えてください)。

なんでここが大阪市なのか解説

それにしてもぜんぜん「参道」らしくなかった。それがまたいいな、と思った。
それにしてもぜんぜん「参道」らしくなかった。それがまたいいな、と思った。
さて、ようやくどうしてこのように大阪市が川を越えて出っ張っているかの詳しい解説だ。

図解するとこう↓
村の形などはてきとうです。
村の形などはてきとうです。
前ページでも書いたように、ポイントは大阪市と松原市の間を流れる大和川が、実は人工の川だということだ。

これ、ぼくは知らなかったのでびっくりした。あんなでかい川が! でも東京でも、あのでかい荒川が人工の放水路なので意外なことではない。

しかし、荒川が近代土木の成果であるのに対し、この大和川が掘削されたのは1704年のことである。江戸時代だ。その2年前に赤穂浪士が討ち入りした、そういう時代である。

もう赤穂浪士とかいいから、この大和川掘削物語を毎年年末に楽しんだらいいんじゃないか。それぐらいすごい工事だったのだ。なんせたった8か月で通しちゃったんだよ。重機とかないのに。

詳しいことはWikipedia「江戸時代の川違え(付け替え)工事」の項などをご覧頂きたいのだが、かんたんにいうと、奈良盆地周辺からの流れは北に向かっていたのだが、それをまっすぐ西に流したのが大和川だ。八尾市あたりの近鉄大阪線とか関西本線はかつての流れに沿って走っている。

河内は川だらけの湿地帯だった。もっと前は湾だった。
レントゲンのようにかつての流れが見える。そして大和川、いかにも人工!(国土地理院「基盤地図情報数値標高モデル」5mメッシュをSimpleDEMViewerで表示したものをキャプチャ・加筆加工)
レントゲンのようにかつての流れが見える。そして大和川、いかにも人工!(国土地理院「基盤地図情報数値標高モデル」5mメッシュSimpleDEMViewerで表示したものをキャプチャ・加筆加工)
前ページにも増してさらに読む人を選ぶ内容になってきているのでややこしい解説はこれぐらいにしておきたいが、なんで大和川を作ったのかの説明だけはしておかねばなるまい。

これはようするに氾濫対策だ。河内は川が運んだ土砂でできた扇状地なので、流れは「天井川」になりやすい。以前萩原さんが記事に書いたり、ぼくが鳥取をたずねてびっくりしたりしたあれだ。川が自分が運んだ土砂でどんどん川底が高くなって、氾濫するという困ったあれだ。上の地形図でもかつての流れの跡のほうがその周辺よりも高い。
1947年の様子。かつての川の部分が見事に見える。(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号・M498/写真番号・60/撮影年月日・1947/09/23(昭22)に加筆)
1947年の様子。かつての川の部分が見事に見える。(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号・M498/写真番号・60/撮影年月日・1947/09/23(昭22)に加筆)
ともあれつまり「川を越えて大阪市が出っ張ってる」のではなくて、川の方が元の集落単位を分断しちゃった、という順番だったのだ。
大阪市が出っ張ってるのはここだけじゃなくて、東の方にも2箇所ほどそういうエリアが。「瓜破」という地名は川を跨いで両岸に。
ただ、ここの場合おもしろいのは、神社だけじゃなくて参道も込みで矢田側にとどまった点だ。これって、神社の敷地は境内だが、神社を神社たらしめている範囲には参道も含まれている、ということを表していると思う。

さらに興味深いのは、であるにもかかわらず前出の写真のようにもはやここには「参道らしさ」がないことだ。このように変わった境界線でなければ、ぼくはこの道を参道と認識しなかっただろう。

つまり、ここでは制度にだけ「参道」が残っているというわけだ。なんとなくお役所的な制度は歴史的な事情を消してしまうことが多いように思うけれど、ここでは逆だ。

次は「古墳住宅街」!

すっかり理屈っぽい内容になってしまった。次も多少理屈っぽいかもしれないが、おもしろいよ。古墳はなくなったけど曲線が残る住宅街だ。
この道の曲線は前方後円墳の円の名残なのだ。
この道の曲線は前方後円墳の円の名残なのだ。
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5世紀のカーブが住宅街に

さて、参道から南西に7km弱行ったところ、堺市の西区上野芝町の住宅街に唐突な曲線の道がある。

これがなんと、前方後円墳の名残なのだ。
今はなき古墳を緑色で示した。東側の曲線の一部が残っているのがわかる。
以前「競馬場の形が残っている住宅地に行ってみた」という記事を書いたことがあるが、今回は同じような曲線でも由来がもっと古い。5世紀中頃のカーブだ。
最寄り駅は阪和線の上野芝駅。駅前にあった看板を見ると、
最寄り駅は阪和線の上野芝駅。駅前にあった看板を見ると、
筆のタッチも生々しく、しっかりと古墳カーブが描かれていた。
筆のタッチも生々しく、しっかりと古墳カーブが描かれていた。
参道と同じように、どこで見た風景かを矢印で示していこう。
古墳の真ん中あたりに位置する道路から。この右への曲がり角を曲がると…
古墳の真ん中あたりに位置する道路から。この右への曲がり角を曲がると…
カーブが始まる!
カーブが始まる!
自分が古墳をなぞって歩いているのだと思うと、よく分からない感慨がわき上がってくる。
自分が古墳をなぞって歩いているのだと思うと、よく分からない感慨がわき上がってくる。
わずか道のり100m足らずで終了。
わずか道のり100m足らずで終了。
大塚山古墳という名前はあるが、ご覧の通り、このカーブ以外には古墳らしさはどこにも残っていない。古墳外周の堀は江戸時代に埋め立てられて、古墳本体は第二次大戦末期に畑に。そして昭和20年代の宅地造成で平らにされて今に至る、という経緯だそうだ。

古墳を残して周囲が先に開発されたために、曲線が残ったというわけだ。
1946年の様子。なんだかだらしなく樹が生えているがまだ古墳としての形を保っている(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号・M157-A-6/写真番号・186/撮影年月日・1946/06/06(昭21))
1946年の様子。なんだかだらしなく樹が生えているがまだ古墳としての形を保っている(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号・M157-A-6/写真番号・186/撮影年月日・1946/06/06(昭21))
15年後の1961年には平らに造成されて現在と同じような住宅街に(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・整理番号・MKK613/コース番号・C12/写真番号・126/撮影年月日・1961/06/06(昭36))
15年後の1961年には平らに造成されて現在と同じような住宅街に(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・整理番号・MKK613/コース番号・C12/写真番号・126/撮影年月日・1961/06/06(昭36))
この古墳カーブを知ったのは『岩波講座 都市の再生を考える〈第1巻〉都市とは何か』という本に収められている中谷礼仁さんによる「先行形態論」を読んでである。中谷先生は『「役に立たない機械を作る」という宿題』でデイリーポータルZにも登場している。

この「先行形態論」はほんとうに強烈におもしろいのでぜひ読んでみてほしい。
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たしかな「古墳跡」に興奮した

以前「ある意味大切に扱われている古墳を見に行く」という記事で高架下に保存されている古墳を愛でた。この大塚山古墳はあれとほぼ同時期の古墳なのだが、この跡形もなさはどうだ。

カーブ以外に痕跡はないものかと探したのだがなかなか見つからない。
「庭ガ」の曲線に「すわ、古墳モチーフか!?」と。そんなわけない。
庭ガ」の曲線に「すわ、古墳モチーフか!?」と。そんなわけない。
この穴の形はきっと古墳へのオマージュに違いない!とか。
この穴の形はきっと古墳へのオマージュに違いない!とか。
さすがに江戸時代からという「壊され歴」も長いものともなるとそうそう痕跡は見当たらない。

と思っていたら、ちゃんと地べたに残っていた。
「前方」の方から見ると、古墳本体に相当するところが微妙に盛りあがってる!
「前方」の方から見ると、古墳本体に相当するところが微妙に盛りあがってる!
わずか50cmぐらいだが、かつての古墳本体は周辺よりも高いのが分かるのだ。
北側から見てもこの通り、微妙だけどちゃんと上り坂!
北側から見てもこの通り、微妙だけどちゃんと上り坂!
駅からの細いアプローチもちゃんと見るとじんわりと上り坂。なんだかすてき!
駅からの細いアプローチもちゃんと見るとじんわりと上り坂。なんだかすてき!
地形図で見てもかろうじてうっすらと古墳状に盛りあがっている(国土地理院「基盤地図情報数値標高モデル」5mメッシュをSimpleDEMViewerで表示したものをキャプチャ・加筆加工)
地形図で見てもかろうじてうっすらと古墳状に盛りあがっている(国土地理院「基盤地図情報数値標高モデル」5mメッシュSimpleDEMViewerで表示したものをキャプチャ・加筆加工)
と、結局最後はやっぱり地形図見て満足するという、ぼく以外には西村さんと三土さんぐらいしか楽しまないだろうな、という締めくくりでした。おっさんになるとどうしてこういうのが好きになるんだろうか。ほんとうにすまん。

いやでも、これ両方とも現地に行ってみて! 実際見ると楽しいから! ほんとに!

今回の記事も地味だったなー

場所が近かったので参道と古墳跡をまとめてひとつの記事にしただけだったが、振り返れば前者が「見えないけれど残されているもの」(もはや参道には見えないけれど行政界という制度によって残されている)で、後者は「見えるけど残されていないもの」(カーブや地形として見えているけれど古墳としてはまったく残されていない)という逆の存在の仕方をしているわけだ。

と、なんとなくそれっぽいことを言って終わりにしよう。
雨の中、古墳カーブで記念撮影した。犬に吠えられた。
雨の中、古墳カーブで記念撮影した。犬に吠えられた。
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