特集 2015年12月7日

消えた地図記号、平成生まれの地図記号

昭和7年の地図記号
昭和7年の地図記号
地図記号。公共施設や日常的に利用する場所を表すこのマークは、各時代の世相を映す鏡でもある。時代の変化で施設が使われなくなれば、その記号も地図上からひっそり姿を消すのだ。

古地図を頼りに、「消えた地図記号」の今を追ってみた。
1980年生まれ埼玉育ち。東京の「やじろべえ」という会社で編集者、ライターをしています。ニューヨーク出身という冗談みたいな経歴の持ち主ですが、英語は全く話せません。

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軍事関連施設だらけの地図

以前、「昭和の地図に残された、3つのナゾを追う」という記事で用いた、昭和7年発行の品川の地図を再び広げてみる。そこに載っている地図記号は、現代のそれとはまるで様子が違う。
昭和7年(1932年)の地図記号。文字は右から読みます
昭和7年(1932年)の地図記号。文字は右から読みます
「陸軍所轄」「海軍所轄」「師團司令部」。
戦時色を強く感じさせる施設の地図記号が、凡例の上の方に記載されている。これが発行された昭和7年は、満州事変の翌年で、日中戦争開戦の5年前。地図記号ひとつとっても当時の時代背景がみてとれる。

ただ、軍の関連施設を地図に載せちゃっていいもんなんだろうか。敵に場所がばれちゃうんではないかと思うが、調べてみると重要な軍事施設を地図上に偽って記載する「戦時改描」が行われたのは主に太平洋戦争開戦後で、この頃はまだ実情に基づく地図だったようだ。

戦時中は、たとえば軍の火薬庫などは桑畑などに偽って記載されたそうだ。改描が行われる少し前のリアルな地図はある意味、貴重な史料かもしれない。
「憲兵隊」が地図記号になっている時代
「憲兵隊」が地図記号になっている時代
一方、消える地図記号もあれば、最近新たに誕生した地図記号もある。
「博物館・美術館」(左)、「図書館」(右)。ともに平成14年に誕生
「博物館・美術館」(左)、「図書館」(右)。ともに平成14年に誕生
「風車」(左)、「老人ホーム」(右)。ともに平成18年に誕生
「風車」(左)、「老人ホーム」(右)。ともに平成18年に誕生
僕も含め、30代前後以降の世代が小学生の頃には習わなかった平成生まれの地図記号。「風車」や「老人ホーム」は、なるほど確かに現代っぽい。

ちなみに、どちらの記号もデザインは公募で選ばれ、風車は当時中1、老人ホームは当時小6が考案したものだという。自分が考えたマークが地図に載って後世に残るなんて、生涯自慢できる手柄ではないか。僕だったらマークを家紋にして、子から孫へその偉業を代々ひけらかしてしまうに違いない。

消えた地図記号の場所へ行く

それはさておき本題へ移ろう。 昭和7年の地図と最新の地図を見比べてみると、そこに記された地図記号の多くが今はもうなくなっている。それはそうだ、なんせ80年前だもの。

たとえば、現在の東京都港区高輪あたりに記されている「三角点(測量の際、経度・緯度・標高の基準になる点)」。現在の地図にはその記載がなく、全国の街区三角点を検索できる国土地理院のデータベースでもヒットしなかった。この場所は今どうなっているのだろうか?
地図から消えた三角点
地図から消えた三角点
というわけで、消えた三角点のナゾを明らかにすべく現地に向かった。
ここがその現地。でかい建物があった
ここがその現地。でかい建物があった
右から表記が歴史を感じさせる「高輪消防署」。今も現役の消防署として使われている建物である
右から表記が歴史を感じさせる「高輪消防署」。今も現役の消防署として使われている建物である
当該の場所にあったのは、高輪消防署の二本榎出張所。地図が発行された翌年、昭和8年に竣工した貴重な建築物である。

なるほど、高台で見晴らしの良いこの場所に消防署を建てるにあたり、三角点は別の場所に移したのかもしれない。
都心部で海抜約30mはかなりの高台。海抜だけじゃなく坪単価も高そう
都心部で海抜約30mはかなりの高台。海抜だけじゃなく坪単価も高そう
かっこいい保存車両が展示されていた
かっこいい保存車両が展示されていた
向かいの通りには消防署と同じくらいレトロな仕立て屋さんがあった
向かいの通りには消防署と同じくらいレトロな仕立て屋さんがあった

陸軍所轄地は今…

さて、次なる消えた地図記号はこちら。品川区上大崎長者丸(現・上大崎2丁目)にあったとされる「陸軍所轄」である。
「M」みたいなマークがそれ
「M」みたいなマークがそれ
戦後は陸上自衛隊の旗を図式化した地図記号に変っている
戦後は陸上自衛隊の旗を図式化した地図記号に変っている
調べてみるとこの近辺には当時、陸軍が使う薬を製造・保管する「衛生材料廠」があったようだ。その後、この地図が発行された直後に海軍大学校が建ち、終戦により廃校になるまで海軍の幹部候補生を育成していた。

そんな場所に、今はURのマンションがそびえたっている。
陸軍、海軍、映画の撮影所を経て現在
陸軍、海軍、映画の撮影所を経て現在
現在、海軍大学校の建物は全て取り壊され、往時の名残は欠片もない。敷地前の案内板には土地の来歴が書かれていたが、軍所轄だったことには一切触れておらず、江戸時代に越後椎谷藩堀家の下屋敷があったことだけが紹介されていた。まるで、戦争のにおいを感じさせる痕跡の一切を排除しているようだ。
なお、近隣には大正7年創業の火災報知機メーカー「ホーチキ」があり、往時をしのばせる「MM式発信機」のレプリカが立っていた
なお、近隣には大正7年創業の火災報知機メーカー「ホーチキ」があり、往時をしのばせる「MM式発信機」のレプリカが立っていた
かっこいい
かっこいい

工場の煙突はタワーマンションに

再び場所を移そう。

現在、桜の名所として知られる目黒川の流域は、「製造所(現・工場)」の地図記号で埋め尽くされている。
青い丸で囲んであるのが全部そう
青い丸で囲んであるのが全部そう
そのほとんどが今はマンションに変わっていた
そのほとんどが今はマンションに変わっていた
古地図上に記されている工場は昭和初期にどわーっと増えたらしい。今のタワーマンションの代わりに工場の煙突が林立していたのだ。
今も残っている煙突は、明治時代から営業している銭湯のそれのみ
今も残っている煙突は、明治時代から営業している銭湯のそれのみ
そんな、かつての工業地帯から目黒川に沿って歩を進めると、周囲を運河に囲まれた東品川1丁目に到着した。ここにも、今では見慣れない地図記号があった。「警報標」だ。
鐘のような形をした地図記号
鐘のような形をした地図記号
「警報標」は天候の標識を掲揚する場所を示す地図記号で、昭和17年まで使われていた。東京湾が埋め立てられる前はこのあたりが海辺だったため、水害を知らせる半鐘が設けられていたと推測される。
江戸時代には、この近くの浜に全長16mのクジラが打ち上げられている。これはその供養碑
江戸時代には、この近くの浜に全長16mのクジラが打ち上げられている。これはその供養碑
「警報標」があった場所は小学校になっていた
「警報標」があった場所は小学校になっていた
「警報標」の場所には小学校があり、津波避難所に指定されていた。ちなみに、去年4月には国土地理院が「避難所」の地図記号を新たに定めている。それがこちらだ。
避難場所の地図記号。最新の地図にはこのマークが使われている
避難場所の地図記号。最新の地図にはこのマークが使われている
記号の形は変わったが、かつては水際で警鐘する場所として、現在は避難場所として、変わらず地域防災を担っているわけだ。ちょっぴりいい話である。

地図には時代が刻まれる

冒頭でも述べたが、昭和7年の地図記号はその多くが軍事関係のものだ。地図を眺めているだけでも、開戦間もない時代の緊迫感が伝わってくる。

「老人ホーム」とか、一見なんでもない地図記号が増えているのは、なんだかんだいってもまあ平和な世の中ってことなんだろう。ありがたや。
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