フェティッシュの火曜日 2016年3月1日
 

東京都内、江戸時代の墓巡り

新幹線と東海道線の線路の狭間に“沢庵和尚”と“鉄道の父”の墓があるって、知ってました?
新幹線と東海道線の線路の狭間に“沢庵和尚”と“鉄道の父”の墓があるって、知ってました?
東京にある古いモノ、と聞いて何をイメージするだろうか。例えば浅草の浅草寺とか、煉瓦造の東京駅とか、あるいは何も思い浮かばなかったという方もいるかもしれない。

確かに、東京には古いモノがそれほど多くないというイメージがある。事実、関東大震災や太平洋戦争の東京大空襲、その後の高度経済成長の影響などによって、東京の古いモノは少なくなった。だがしかし、それでも東京には江戸時代の遺物がそれなりに残されているのである。

その中でも意外と多いのが、墓だ。
1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。
> 個人サイト 閑古鳥旅行社 Twitter

史跡に指定されている江戸の墓

私は古いモノが好きだ。その守備範囲は先史時代から近代に至るまで、古いモノなら何でもござれという節操のなさである。

そんな私が古いモノをあさる際、ある種の目印としているのが「史跡」である。日本には遺跡が数えきれないくらいに存在するが、その中でも特に重要とされるものは国が「史跡」に指定して保護しているのである。

史跡に指定されている場所に行けば、間違いなく古いモノが見られるだろうという、我ながら実に単純な思考回路だ。

史跡に指定される対象は実に様々で、集落跡、古墳、城跡、神社仏閣、庭園などなど多岐に渡る。
弥生時代の代表格、佐賀県の吉野ケ里遺跡は史跡の中でもさらに重要とされる特別史跡だ
弥生時代の代表格、佐賀県の吉野ケ里遺跡は史跡の中でもさらに重要とされる特別史跡だ
同じく、織田信長の居城であった滋賀県の安土城跡も特別史跡
同じく、織田信長の居城であった滋賀県の安土城跡も特別史跡
東京でいえば、その中心にたたずむ江戸城跡が特別史跡
東京でいえば、その中心にたたずむ江戸城跡が特別史跡
東京ドームの隣に広がる後楽園は、水戸黄門こと徳川光圀が完成させた大名庭園だ
東京ドームの隣に広がる後楽園は、水戸黄門こと徳川光圀が完成させた大名庭園だ
とまぁ、江戸城跡や小石川後楽園など3件の特別史跡を筆頭に、東京都には現在45件の史跡が存在するのだが、そのうち実に17件が江戸時代に活躍した人々の墓なのである。

東京の史跡が墓だらけであることに軽く驚きだが、同時に歴史の教科書に名前が載るような人々のお墓が、意外と身近に存在することに奇妙な親近感を覚えた。

よーし、ちょっくら江戸の墓参りと洒落込もうじゃぁないか。

東上野に眠る、伊能忠敬とその師匠

四国遍路やサンティアゴ巡礼など、私は歩く旅行が好きだ。なので日本全土を歩き回って測量を行い地図を作製した伊能忠敬を崇敬している。

その伊能忠敬と、忠敬に測量の技術を教えた高橋至時(たかはしよしとき)の墓が、上野の源空寺というお寺にあり史跡に指定されているという。ぜひともお参りさせていただこう。
煉瓦造の東京駅に隠れがちだが、昭和7年に建てられた上野駅も私は好きだ
煉瓦造の東京駅に隠れがちだが、昭和7年に建てられた上野駅も私は好きだ
上野公園がある西側ではなく、良い感じの風情が残る東側の下町を行く
上野公園がある西側ではなく、良い感じの風情が残る東側の下町を行く
途中、東京メトロの車庫を横切った
途中、東京メトロの車庫を横切った
その反対側は地下へと続いている
その反対側は地下へと続いている
「へぇー、上野駅のすぐそばにこんな車庫があるなんて凄いなぁ」と思ったのだが、ふとなんとなく既視感があったので調べてみると、当サイトライターの萩原さんが2010年にこの車庫を記事にされていた(参考記事→「地上1階地下1階!地下鉄の車両基地見学」)。さすがである。
まっすぐな道路の先にそびえたつのは、東京スカイツリー
まっすぐな道路の先にそびえたつのは、東京スカイツリー
この構図にも見覚えがあったが、こちらは西村さんの記事である(参考→「スカイツリーは電線越しに見るとかっこいい」)。うん、確かに電線越しに見るスカイツリーはカッコ良い。

さてはて、上野駅から歩くこと約15分ほどで源空寺に到着した。江戸の地図を見ると、東上野の一帯は寺院が密集する寺町だったようで、付近にはお寺が点在している。とはいえ現在は普通の家も多く、他地域よりはお寺の多い住宅街といった趣きだ。
かつてはもっと広い境内だったようだが、現在は住宅街に埋もれている
かつてはもっと広い境内だったようだが、現在は住宅街に埋もれている
墓地は本堂から分断され、道路の反対側に位置していた
墓地は本堂から分断され、道路の反対側に位置していた
古い墓石と新しい墓石が混在しており、歴史を感じさせる墓地である
古い墓石と新しい墓石が混在しており、歴史を感じさせる墓地である
ズラリと並ぶ墓石のうち、伊能忠敬の墓はちょうど真ん中にあった
ズラリと並ぶ墓石のうち、伊能忠敬の墓はちょうど真ん中にあった
江戸時代の墓とはいえ現在の様式と大差はない。実に立派なお墓である。ほとんど風化していない状態を見るに、良い石材を使っているのだろう。

墓石には達者な字で「東河伊能先生之墓」と刻まれており、人々に慕われ、尊敬されていたことがうかがえる。ちなみに伊能忠敬は漢詩などにも通じていたとのことで、東河とは忠敬の雅号なのだそうだ。
裏側には忠敬の来歴が漢文で刻まれている
裏側には忠敬の来歴が漢文で刻まれている
伊能忠敬はもともと現在の千葉県佐原市で酒蔵を経営していたのだが、50歳の時に息子に家督を譲って隠居。暦学を勉強するために江戸へと赴き、当時31歳であった高橋至時に弟子入りする。
ちなみに佐原は現在も蔵造の商家が並んでいて、実に良い雰囲気の街並みが見られる
ちなみに佐原は現在も蔵造の商家が並んでいて、実に良い雰囲気の街並みが見られる
対岸に水を渡していたジャージャー橋のたもとには伊能忠敬の旧宅も残っている
対岸に水を渡していたジャージャー橋のたもとには伊能忠敬の旧宅も残っている
忠敬は至時の元で勉学に励み、55歳の時に初めて測量の旅に出発。以降、73歳で死去するまで10度に渡って測量の旅に出た。

ちなみに師匠の至時は忠敬より早く41歳という若さで亡くなっており、その墓は忠敬の墓の左隣に存在する。忠敬は死ぬ直前「自分がここまでくることができたのは高橋先生のおかげだからその隣で眠りたい」と述べたことから、至時の隣に忠敬の墓が築かれたのだそうだ。
こちらが高橋至時の墓。忠敬のものより小さいが、威厳がある感じだ
こちらが高橋至時の墓。忠敬のものより小さいが、威厳がある感じだ
っていうか、説明板が近すぎてちょっと邪魔になっている
っていうか、説明板が近すぎてちょっと邪魔になっている
初めて正確な日本地図を作製した伊能忠敬やその師匠が眠っている墓前に立ち、手を合わせてお参りをしただけで、なんだか歴史に直接触れることができたという感じである。

これまでは歴史の教科書や書籍などで名前を目にしただけというあやふやな存在だったのに、墓を訪ねることでその人の存在が自分の中で浮き彫りになる。おぉ、歴史上の人物の墓参りというのは、なかなかどうして意義のあることではないか。

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