特集 2016年7月5日

すべての時代の道が残る「宇津ノ谷峠」が凄い

平安時代と江戸時代の古道、および明治・大正・昭和・平成のトンネルが残る峠があるのです
平安時代と江戸時代の古道、および明治・大正・昭和・平成のトンネルが残る峠があるのです
静岡県静岡市と藤枝市の境に「宇津ノ谷(うつのや)峠」が存在する。

かつての主要街道である旧東海道にあたり、現在は国道一号線が通るその山塊には、古代から中世、近世、明治、戦前、戦後、平成に築かれた各時代の道がすべて残っているのである。

古い道というのはその後の時代に上書きされてしまいがちだ。各時代の道が今もなお全部現存するって、ちょっと、いやかなり凄いことなんですよ。
1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。(動画インタビュー)

前の記事:思い出の狭隘トンネルを探しに伊勢志摩へ

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各時代の道路が交錯する宇津ノ谷峠

とにもかくにも、まずは下のGoogleMapをご覧いただきたい。宇津ノ谷峠における、各時代の東海道を示したルート図である。

それぞれ時代が古いものから――
緑色:古代~中世(平安~安土桃山時代)
橙色:近世(江戸時代)
赤色:近代(明治時代)
紫色:戦前(大正時代~昭和初期)
水色:戦後(昭和中期)
紺色:平成
――に築かれた道だ。
各時代のルート変遷をざっくり説明すると、まず平安時代に山道が切り拓かれ、主要街道として使用されるようになった(緑色のルート)。

安土桃山時代の天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の際に新たなルートが開拓され、江戸時代に東海道として整備された(橙色のルート)。

明治時代に入ると馬車や人力車が通るための緩やかな勾配のジグザグ道が築かれ、峠の部分にはトンネルが掘られている(赤色のルート)。また大正時代から昭和初期にかけては自動車に対応した規格の道路とトンネルが築かれた(紫色のルート)。

戦後になると山を貫く近代的な2車線のトンネルが掘られ(水色のルート)、平成に入ってからは同じく2車線のトンネルが並行して築かれた(紺色のルート)。この二つのトンネルは、現在それぞれ国道一号線の上り車線と下り車線として利用されている。
昭和34年(1959年)に開通した新宇津ノ谷隧道 (昭和第二トンネル)
平成10年(1998年)に開通した平成宇津ノ谷トンネル
ストリートビューでの紹介で恐縮だが、現役の国道一号線であるこれら二つのトンネルは、どこにでもあるような現代のトンネルなので(とはいえ、戦後まもなくのトンネルでこの規模は凄いのだが)、割愛させていただく。

現代の道路が山をトンネルで一直線状にぶち抜くのに対し、昔の道は地形に対応しつつその時々の土木技術をもって築かれてきた。各時代ごとに人々はどのような道を通ってきたのか、実際に歩いて確認してみようではないか。

まずは古代から中世にかけて使われていた、現在は「蔦の細道」と呼ばれている峠道だ。
「蔦の細道」の入口は、静岡市側にある道の駅のすぐ側だ(立札もあり分かりやすい)
「蔦の細道」の入口は、静岡市側にある道の駅のすぐ側だ(立札もあり分かりやすい)
割と平坦な道を進んでいくと――
割と平坦な道を進んでいくと――
程なくして木々に囲まれた山道となる
程なくして木々に囲まれた山道となる
この道は古くより「宇津の山越え」として知られており、平安時代初期の『伊勢物語』においても歌人の在原業平(ありわらのなりひら)がこの道について「蔦が生い茂る暗くて心細い細道」と記している。そのことから「蔦の下道」とも称され、文人墨客に親しまれていたそうだ。

実際に歩いてみると確かに細い山道なのだが、思っていたよりは歩きやすい。いや、歩きやすいルートだからこそ、主要道として使われるようになったのだろうが。
沢沿いの道なので確かに湿気がある、昔は広葉樹林でもっと鬱蒼としていたのだろう
沢沿いの道なので確かに湿気がある、昔は広葉樹林でもっと鬱蒼としていたのだろう
二本の沢に囲まれた道のえぐれ具合に歴史を感じる
二本の沢に囲まれた道のえぐれ具合に歴史を感じる
水が湧く地点を越えると、湿気がなくなりカラッと明るい道になった
水が湧く地点を越えると、湿気がなくなりカラッと明るい道になった
歩き始めて10分強で峠に到着だ
歩き始めて10分強で峠に到着だ
峠からは富士山が見えるらしいが、残念ながら曇に隠れていた
峠からは富士山が見えるらしいが、残念ながら曇に隠れていた
まぁ、なんていうか、至って普通の山道である。最後の辺りはそれなりに傾斜がきつくなったりもしたが、それでも距離的にさほどでもなく、くたびれるという感じではない。

とはいえ、それは車両が使える現在だからの話であって、かつてはほとんどの行程が歩き旅だったのだ。比較的平坦な東海道をはるばる歩いてきた中で挑むこの峠道は、ちょっとした中ボスのような存在だったことだろう。

ちなみに在原業平はこの峠道で顔見知りの修行者に会い、京への文を託したという。また鎌倉時代に阿仏尼(あぶつに)が記した『十六夜日記』においても、この峠道で知り合いの山伏と再会している。

人の多い町中では知人がいても知らずにすれ違ってしまいそうなものだが、この細い山道ならば確実に顔を合わせることになるだろう。旅人にとって、峠道とは再会の場なのかもしれない。
現在は歩く人も少ないこの峠道、特に誰とも会うことなく下る
現在は歩く人も少ないこの峠道、特に誰とも会うことなく下る
ミカン畑の脇を抜けていくと――
ミカン畑の脇を抜けていくと――
路肩に「猫石」なる岩があった
路肩に「猫石」なる岩があった
猫石という名の割には角ばっていてあまり猫っぽくない。気になったので調べてみると、なんでもこの岩は、かつて老婆に化けて人に害をなしていた山猫のなれの果てだという。

うーん、まぁ、頭が尖っていることを除けば、香箱座りしている猫に見えなくもない……か? あるいは風化で形が変わっただけで、伝承が生まれた当時はちゃんと猫っぽい形だったのかもしれないが。

いずれにせよ、路肩の岩にすら伝承が残るこの道は、それだけ長い歴史を辿ってきたということだ。
いつの時代のものだろうか、石畳が敷かれていて雰囲気出てる
いつの時代のものだろうか、石畳が敷かれていて雰囲気出てる
石積みで整地された平場も見られる。かつては建物があったのだろう
石積みで整地された平場も見られる。かつては建物があったのだろう
さらに下っていくと、石畳が崩れたのだろうか、岩がごろごろで少々歩きづらい
さらに下っていくと、石畳が崩れたのだろうか、岩がごろごろで少々歩きづらい
坂を下り切ったところで未舗装路は終わった。こちら側の入口には立派な石碑が
坂を下り切ったところで未舗装路は終わった。こちら側の入口には立派な石碑が
距離にして1km程度、およそ20分くらいで峠道を抜けることができた。ここからは木和田川沿いを通るアスファルトの道路を歩いていく。
公園として整備されている道路の傍らには、古い家屋が見られる
公園として整備されている道路の傍らには、古い家屋が見られる
石積みで築かれた砂防ダムもあった
石積みで築かれた砂防ダムもあった
なんでもこの砂防ダムは「兜堰堤」と呼ばれ、大正元年(1912年)頃のものだという。明治43年(1910年)に豪雨によって土石流が発生して多大な被害が出たとのことで、オランダ人技術者の指導のもと地元の石工たちによって築かれたのだそうだ。

組み上げられた石積みも見事だが、石の凹凸によって流れる水が波立ち、なかなかに風流なたたずまいである。

思いがけぬところで遭遇した古い砂防ダムにウキウキ気分で進んでいくと、道路の脇から山へと続いていく未舗装路が現れた。
「蔦の細道」に代わって開拓された、近世の東海道である
「蔦の細道」に代わって開拓された、近世の東海道である
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旧東海道に見る江戸時代の土木技術

それでは、お次は近世の道である旧東海道を歩いてみよう。豊臣秀吉が後北条氏を攻めるために切り拓いたと伝わる道である。

豊臣秀吉や徳川家康の大軍勢が通ったであろう道だ。さてはてどんなものかと足を踏み入れてみると、すぐに先ほどの山道とは道の様相が全く異なることに気がついた。
想像していたより圧倒的に道幅が広いのだ
想像していたより圧倒的に道幅が広いのだ
石積みで整地して道幅を確保&勾配を緩くしている箇所もある
石積みで整地して道幅を確保&勾配を緩くしている箇所もある
斜面の急な箇所は掘削され切通しとなっていた
斜面の急な箇所は掘削され切通しとなっていた
中世まで使われていた「蔦の細道」が人の手がほとんど入っていない山道であったのに対し、この旧東海道はあちらこちらに土木工事の跡が見られ、山道というよりは林道といった印象だ。道幅も1.5車線ぐらい確保されており、かなり広々とした感じである。

小田原征伐の際、秀吉の軍勢は16万人を超えていたという。そのような大軍が「蔦の細道」のような山道を越えるとなると、相当な時間がかかることだろう。一方でこの幅の広い道であれば、一度に大量の兵を通すことも可能なはずだ。なるほど、豊臣秀吉が進軍のために切り拓いたという話も納得できる。

もちろんその時に築かれた道は暫定的なもので、江戸時代に改めて東海道として整備されたことで今に見られる姿になったのだろうが。
路肩に鎮座する石碑は、交通安全を願って天保6年(1835年)に築かれたものだ
路肩に鎮座する石碑は、交通安全を願って天保6年(1835年)に築かれたものだ
さらに進んでいくと、アスファルト舗装の道路と合流した
さらに進んでいくと、アスファルト舗装の道路と合流した
右に折れる舗装路を横目に、旧東海道は直進を続ける
右に折れる舗装路を横目に、旧東海道は直進を続ける
このアスファルト舗装の道路は、戦後に築かれたトンネルの通気口へ通じる作業用道路のようだ。蛇行しながら山の上へと続く道路の一部として、旧東海道を利用しているのである。

車道としても使用できるくらいに道幅が広く取られた旧東海道。当時は幹線道路として、さぞや多くの人々、物資を積んだ大八車で賑わっていたのでしょうな。
一番傾斜のきつい峠の部分は、大きく掘り切られている
一番傾斜のきつい峠の部分は、大きく掘り切られている
峠から少し下っていくと、ちょっとした平場があった。どうやらお堂の跡のようだ
峠から少し下っていくと、ちょっとした平場があった。どうやらお堂の跡のようだ
ここにはかつて地蔵堂が建っていたという。明暦2年(1656年)に描かれた狩野探幽の「東海道地取図巻」にも既に小さな祠として描かれており、江戸時代前期から東海道を行く人々の信仰を集めていたようだ。

それだけなら「ふーん」という話で終わるが、このお堂跡の平場を築いている石垣がかなり壮大なものでびっくりした。
道を下りていくと立派な石積みが姿を現し、思わず「おおっ!」と声がでた
道を下りていくと立派な石積みが姿を現し、思わず「おおっ!」と声がでた
二段に造成された、堅固な石積みである
二段に造成された、堅固な石積みである
この石垣は江戸時代中期にあたる(18世紀末)に築かれたといい、文化3年(1806年)に描かれた「東海道分間延絵図」にも石垣の様子が緻密に描かれている。

城郭の石垣とは異なる積み方だというが、その仕事は非常に丁寧で、おそらく地元の石工が築いたのだろう。そうして代々受け継がれてきた石積みの技術が、先ほど見た兜堰堤にも発揮されたに違いない。

街道の造成といい、石積みの組み上げといい、江戸時代の土木技術に感服しながら進んでいくと、ふと路肩にたたずむ古そうな石碑が目に留まった。
享保15年(1730年)に築かれた、「雁山(がんざん)」という人物の墓石である
享保15年(1730年)に築かれた、「雁山(がんざん)」という人物の墓石である
調べてみると、雁山は駿河と甲府に庵を持っていた俳人らしい。享保12年(1727年)頃に旅に出たのだが、そのまま音信不通になってしまい、旅先で客死したのだろうと考えた駿河の文人たちがこの墓を建てたという。

しかし実際には雁山はまだ生きており、その後も複数の著書を残して明和4年(1767年)に甲府で亡くなったという。連絡を怠ったばかりに自分の墓が立てられていたとは、いささか他人事とは思えない出来事だ。

というのも、私は2004年に起きたスマトラ島沖地震の際にインドネシアを旅行しており(しかもスマトラ島を縦断した直後で、ジャワ島にいた)、私と連絡が取れないとのことで親類縁者一同を大騒ぎさせてしまった過去がある。外務省にも問い合わせたとのことで、いわゆる安否不明者のひとりになっていた。

私はそんなことなど露知らずに旅行を続け、バリ島のネットカフェで何通も来ていた安否確認のメールに驚き、あわてて返信した次第である。いやはやなんともお恥ずかしい話であるが、この雁山の墓を前に改めて定期的な連絡は欠かせないと痛感した。
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旧東海道の真下を通る明治時代の煉瓦トンネル

さて、散策を続けよう。雁山の墓からさらに進むと辺りは竹林となり、やがて未舗装路が終わって集落に出た。
竹の道も風情があって良いものですな
竹の道も風情があって良いものですな
旧東海道は宇津ノ谷の集落内へと続いていくのだが――
旧東海道は宇津ノ谷の集落内へと続いていくのだが――
このまま旧東海道を辿って集落に下りるその前に、明治時代の道について押さえておこう。

明治時代の東海道もまた宇津ノ谷の集落内を通っていたのだが、集落の出口で旧東海道から反れ、峠の真下を通るトンネルへと向かうのだ。このトンネルが、想像以上にカッコ良くて驚いた。
緑が生い茂る山の中、ぽっかりと口を開けた明治トンネル
緑が生い茂る山の中、ぽっかりと口を開けた明治トンネル
近づくまで分からなかったのだが、なんと煉瓦造りであった
近づくまで分からなかったのだが、なんと煉瓦造りであった
赤みがかった照明に照らされた煉瓦は、なんとも幻想的な雰囲気だ
赤みがかった照明に照らされた煉瓦は、なんとも幻想的な雰囲気だ
ひとつひとつ色合いが違う煉瓦と、減衰率の高い照明の相乗効果でより美しく見える
ひとつひとつ色合いが違う煉瓦と、減衰率の高い照明の相乗効果でより美しく見える
反対側のポータルには翼壁がなく、岩盤剥きだしでより荒々しい男前な感じ
反対側のポータルには翼壁がなく、岩盤剥きだしでより荒々しい男前な感じ
このトンネル、元は明治9年(1876年)に開通したとのことだが、その後の火災によって崩壊したため、今に残るものは明治37年(1904年)に一部を再利用する形で改修されたものだ。その全長は203メートル。

明治時代の交通網は鉄道が主役だったので、人や物資の往来はそれほどでもなかったかもしれない。だが、それでも周辺地域の人々が行き交う生活道として活躍したはずだ。

現在、このトンネルは自動車通行止めだが、徒歩はもちろん自転車でも通ることができる。私がトンネルの中を歩いている最中にも、高校生と思わしき男子が自転車で駆け抜けていった。現在も通学路として現役なのだ。

ちなみにこの明治の道をさらに進むと、大正時代から昭和初期にかけて整備された道路と合流する。せっかくなのでそちらのトンネルも見にいってみたのだが――
改修工事の真っ最中で全面通行止めであった
改修工事の真っ最中で全面通行止めであった
こちらのトンネルは昭和5年(1930年)開通した宇津ノ谷隧道(昭和第一トンネル)で、大正時代から計画があったことから「大正トンネル」と呼ばれている。

コンクリート製ながら愛嬌のある楕円形の入口が印象的なトンネルなのだが、老朽化の補強工事だろうか、工事中で立ち入ることはできなかった。

コンクリートは空気中の二酸化炭素や酸性雨などにさらされるとアルカリが中和されて劣化してしまう。するとヒビが入ったり割れたりと、安全性に問題が生じてしまうのだろう。維持や保存という点では、煉瓦よりもコンクリートの方が難易度高そうだ。
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谷間にひっそり残る、宇津ノ谷の古い町並み

大正トンネルが通行止めだったので、明治トンネルを引き返して戻ってきた。引き続き旧東海道を辿り、集落へと下りていく。
おぉ、旧東海道沿いの集落なだけあって、歴史がありそうな雰囲気だぞ
おぉ、旧東海道沿いの集落なだけあって、歴史がありそうな雰囲気だぞ
街道に沿って家屋が連なる、実に絵になる風景だ
街道に沿って家屋が連なる、実に絵になる風景だ
建ちの低い家屋が多く、古い建物も結構残ってる印象
建ちの低い家屋が多く、古い建物も結構残ってる印象
新しい家屋も下見板張りに統一され、景観が整っている
新しい家屋も下見板張りに統一され、景観が整っている
急な石段を迂回する緩やかな道は、明治時代に通されたものだ
急な石段を迂回する緩やかな道は、明治時代に通されたものだ
宇津ノ谷は旧東海道沿いの集落であるが、宿泊機能が整ったいわゆる宿場町ではない。宇津ノ谷峠を越える人々が休憩するための茶屋が集まっていたようである。

国道一号線がトンネルで迂回するようになった今は静かな山間の集落といった感じだが、かつてはこの路地を大勢の人々が通っていたと考えると、なんとも感慨深いものがありますな。
こちらのお宅は秀吉に馬の沓を献上して小田原征伐の戦勝祈願をしたそうで、そのお礼として与えられたという羽織りが残されている
こちらのお宅は秀吉に馬の沓を献上して小田原征伐の戦勝祈願をしたそうで、そのお礼として与えられたという羽織りが残されている
古い建物も印象的だが、その家屋を支えている石積みがあまりに立派で目を見張った
古い建物も印象的だが、その家屋を支えている石積みがあまりに立派で目を見張った
城郭の石垣のように整った感じではないが、様々な形の石をうまく組み上げていて味がある
城郭の石垣のように整った感じではないが、様々な形の石をうまく組み上げていて味がある
裏路地は石積みが絶妙に入り組んでいて、まるで芸術作品のような美しさだった
裏路地は石積みが絶妙に入り組んでいて、まるで芸術作品のような美しさだった

各時代の道を手軽に網羅できる「宇津ノ谷峠」はやっぱり凄い

蔦の細道から始まり、旧東海道、明治の煉瓦トンネル、そして集落の町並み。ひとつの峠に見どころがギュッと詰まっていて、散策を終えた後は実に満ち足りた気分であった。

各時代の道が良好な状態で現存する「宇津ノ谷峠」は、いわば道の博物館。交通史的に極めて貴重な場所といえるでしょうし、なにより歩いていて発見が多くて楽しい。昔の道の様相と変遷を知るのに、これほど適した場所はないでしょうな。

ちなみに宇津ノ谷峠に道が拓かれる以前、平安時代よりも前の時代はより太平洋側の「日本坂峠」を通っていた。そちらの中腹にある花沢集落もまた、石積みと下見板張りの家屋が印象的な町並みが残っていて良い雰囲気です。
古代の東海道沿いに残る花沢集落もまた素晴らしい
古代の東海道沿いに残る花沢集落もまた素晴らしい
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