手品の拙さを消そう
今回はそれを調べるために、覚えたての手品を披露し、その手際の悪さを誤魔化すことのできるカメラのアングルを探すことにした。世の中にも手品に憧れを抱いている人は多いのではないだろうか。
しかし手品の道具を揃え、すぐ披露しようとしてもそんな拙い手品は見るに堪えない。手品は人前で見せられるようになるまでが大変なのだ。しかしカメラのアングルは、そんな問題さえもすぐに解決できるはずだ。
アングルさえ工夫すれば、覚えたての手品でさえも一流の代物に変身することだろう。今回はその場で手品を覚え、覚えたばかりの手品を様々なアングルから撮り、手際の悪さを打つ消すことのできるアングルを探した。
手品を覚える
まず東急ハンズで手品の道具を買う。今回はマジック・テイメントのミスターラビットにした。手に持ったウサギの数を増やしたり、手から大きなウサギを出したりする手品だ。
これなら一人で行えて、かつ派手な動きもある。
早速手品を覚える。何度も繰り返し練習する。時間が無いので必死だ。
必死で手順を覚えている自分の横で、外国人がポケモンGoをしている。
捕まえたようだ。
早速覚えたての手品を披露する。マジックの内容であるが、まず左手にあるウサギを右手で握りこむと、ウサギが三匹に増える。増えたウサギを振っているうちに三匹のウサギが一つの大きなウサギになる。最後の大きなウサギを出すというのが難所だ。必死で練習したがいくらやっても綺麗に出せない。
一抹の不安がよぎる。
しかしこれでよいのだ。こんな人様に見せるものとは程遠いものでも、アングルさえ工夫すれば、一流のマジシャンとも引けを取らない一芸に生まれ変わるはずである。
付け髭と黒のハットをつけて気合十分。マジシャンとしてプロにも劣らぬ気迫で挑む。
技術はなくても、気持ちは負けない。
手元がよく見えないアングルで撮る
まず遠い位置から撮影してみる。大きなウサギがギリギリ見えるか見えないかの距離である。こうすることで手際の悪さには否が応でも見ることができないし、大きなウサギが見えるという手品の最後のいいところだけを見て、達成感を味わえるはずである。
これはどうなのだろうか。ちらちらと赤いものがかすかに見えるが、ほとんど何をしているのか分からない。最後に大きなウサギが見えたときに小さな感動すら覚えるが、これは何を見せられているんだという気持ちを抑えることができない。
斜めからも撮ってみる。もはや他人のようである。ここでマジックを見ようという気が起こらない。
興味がない人の目線。
ならば今度は真下から撮ってみる。こうすると巨人が手品をしているようにも見えてくる。大き過ぎるものへ対する本能的な恐怖すら感じる。しかし難点があり手品はほとんど見えない。また逆光のせいでマジシャンが暗くなってしまう。わざわざこんな怖い気持ちになるアングルから手品なんて見たくない。
立ちふさがる恐怖が、手品の成功も見えなくさせる。
後ろから撮ってみる。これでは手品が見えないのに、見えてはいけないものばかり見える。手品をしている人の背中が、どこか寂しげにも見える。大きな都庁と対比されて、侘しさが倍増している。
都庁の大きさ、マジシャンの背中の小ささ
何かメッセージが込められているのではと勘ぐりたくなる構図でもある。このマジシャンにはこれから後成功するビジョンが浮かんでこない。
辿り着く、かっこよく撮るということ
都庁と背中という組み合わせが悲しい結果をもたらしてしまった。ならば逆に都庁をバックに正面から手品を披露したらどうだろう。
どこかアーティスト写真っぽい。
するとどうだろう。ついさっきまでマジシャンの背中に悲壮感を植え付けていた都庁がマジシャンの味方になった。マジシャンはプロ顔負けの貫禄を手に入れ、都庁はこれまでとは打って変わって一貫してマジシャンを引き立てている。これが正しいマジシャンと都庁の関係性である。
こうすると不思議と都庁に目が行き、手品の手際の悪さが気にならない。また都庁の力強さも相まって、高度な手品をやっているようにも見える。
今度はカメラを動かしながら撮ってみる。手品をする人の周りをカメラが回り込みながら撮影する。
どうだろうか。画面に迫力が増した上、大きなウサギを出す瞬間も本来はまごついているだけなのに恐ろしくかっこよくなってしまった。途中道具を地面に落としていたり、見えてはいけないものが見えていたりするが、それすらもかっこよさを表現するエッセンスとして機能している。
この動画の欠点をもし上げるとするのならば、マジシャンの後ろに画面におじいちゃんと孫が仲睦まじく遊ぶ姿が写り込んでしまっている点だ。おじいちゃんと孫はかっこよくない。おじいちゃんと孫のせいで動画のかっこよさは少し弱まってしまったが、それを加味してもこのかっこよさなのだから、動きを出すことはマジックを誤魔化すのに非常に重要な手段であるといえよう。
僕らは手品の凄さではなく、かっこよさを求めている
私たちは普段、そこまでマジックの内容を見ていないのではないだろうか。私たちが手品に求めているものは本来かっこよさなのであって、普段ありえないことが目の前で起こるというかっこよさを見て、人々は喜んでいるのだ。
手品の技量不足を補うには、何よりもかっこいいものと一緒に撮ること、かっこよく撮ることなのだと感じた。できるならイケメンがやったほうがいいのであろう。遠い位置から撮ったり下から見上げたりして、手際の悪さを隠そうとすればするほど、その手際の悪さは目立ってしまう。マジックをする上で大切なのは、全てオープンにすること、そしてその状態をかっこよく撮るということである。手品をすることと全てをさらけ出すことは表裏一体なのであった。
これは社会にも通ずるものなのではないか。自分の短所を隠そうとすることは結果として自分を追い込み、辛くなるだけだ。自分をすべて肯定し、その上での努力をするということの大切さを、手品とアングルが私に教えてくれた。
そんなに恥ずかしくなかった
撮影をするのはきっと恥ずかしいのだろうと予想していたが、隣で芸人のトリオと思しき人たちがネタ合わせをしていたり、昼休みのおじさんがオカリナを吹いていたりして、付け髭黒ハットで手品をしていても全く恥ずかしくなかった。