特集 2017年3月8日

30年経っても変わらないものを求めて川崎へ~約30年前の史跡本で川崎をめぐる~

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史跡とは、古墳や貝塚といった遺跡のうち、歴史的・学術上に価値の高いもので国や自治体によって指定されているものである。
街並みが変化してしまっても、そうした史跡は30年の年月が経っても変わらないのではないだろうか?
そんなことが気になったので、30年前の史跡の本を手に川崎に繰り出した。
生まれも育ちも横浜。大人げない大人を目指し、日夜くだらないことを考えています。ちぷたそ名義でも活動しています。(動画インタビュー

前の記事:名前と1mmも関係ないあだな【回答編】


史跡の本、フォントのチョイスが絶妙だ
史跡の本、フォントのチョイスが絶妙だ
家には今3冊の昔の史跡の本がある。これらはいずれも昭和61~62年に発行されたものである。そもそも手に取ったきっかけは、図書館の地域コーナーでこちらを見つけて読んでいたら楽しくなってしまったのでネット通販などで購入して地味に集めている。
京浜東北線のデザインに時代を感じる
京浜東北線のデザインに時代を感じる
当サイトでも、ライター地主さんが昔のガイドブックの場所に行ってみたりしている。今回の史跡本での探訪は史跡という性質上、30年ぐらいならあまり変わることはなく残っているのではないかと思っているが果たしてどうなんだろうか。

川崎に来た

JR川崎駅
JR川崎駅
「京浜東北線 歴史散歩」の本を持って川崎に来た。なぜ川崎かというと、パラパラ読んでいたら京浜東北線沿線の駅の中でも川崎がギャップがありそうで面白そうだと感じたから。
「六郷の渡し」が気になる
「六郷の渡し」が気になる
川崎周辺の地図。だがこれは、30年前の地図なわけではなく、江戸時代の史跡の場所も書かれた地図となっている。こうした手描き感あるテイストのイラストは懐かしい気持ちになる。この地図の中で、一番個人的に気になっているのは「六郷の渡し」。
六郷の渡し、写真も載っていた
六郷の渡し、写真も載っていた
渡し船があったことも知らなければ、川崎にそんな大きな川があったことにも気づいていなかった。川崎は駅からアクセスの良い範囲にいくつも大きな商業施設がある。そしてせいぜい映画館のある「ラ・チッタデッラ」あたりまでが私の「川崎」のイメージだったのだ。川崎には渡し船があったのか……。
○川崎駅
○京急川崎駅
○宗三寺(遊女の供養塔がある)
○本陣跡(大名向けの宿泊施設)
○稲毛神社(歴史の古い神社)
○六郷の渡し(明治天皇も渡った)
○万年屋跡(江戸の大名に人気だった店)
○奈良茶飯(万年屋で人気だったメニュー)
今回、記事では上記のように回っている。前述の「六郷の渡し」は記事の最後の方に回っているが、どうか最後までお付き合いいただけると嬉しい。
この写真を撮っている時に悲劇が起こる
この写真を撮っている時に悲劇が起こる
そして川崎駅前である悲劇が起こる。ルートを考えながらこの写真を撮っていたら突然、隣で彼女に花束を渡すカップルとその様子をスマホで撮影する友人たちというサプライズが始まってしまったのである。突然のことに私は、いたたまれなくなって逃げてしまった。あぶない、人の思い出データに通行人Aとしてまるまる入り込むところだった。
つらい
つらい
そんなわけで、考えなしになんか変な出口から出てきてしまった。川崎は、駅前開発が進んでいた。いきなり出ばなをくじかれたが、まずは史跡の本に載っていたお寺を目指す。一見通れるのかと思いきや封鎖されているような、川崎の複雑な道の構造にはちょっとだけ苦しめられた。
京急川崎駅
京急川崎駅
JR川崎から京急川崎へ移動した。神奈川在住だが、川崎って実はあまり行ったことがなかった。川崎は映画館が快適で美味しい食べ物屋もいっぱいあるから好きなんだけど、横浜民にとっては「大都市=横浜」で、「横浜でいいじゃん」となりがちなのである。横浜の人は横浜が好きだなーと思うのは、自分の周りの神奈川民は、自分の両親をはじめ横浜より先に出たがらない人が結構いる。なので、今日はそのうっすい自分の川崎感を更新できたらと思っている。

遊女の供養塔がある宗三寺

京急川崎駅から徒歩3分ほどで「曹洞宗 宗三寺」に到着した。
京急川崎駅から徒歩3分ほどで「曹洞宗 宗三寺」に到着した。
京急川崎駅から徒歩3分ほどで「曹洞宗 宗三寺」に到着した。
京急線ホームが見えるお寺
京急線ホームが見えるお寺

 

このお寺(と墓地)は、京急川崎駅のホームから見下ろすことができるのだ。そんな宗三寺は、かつてこの地にあった東海道の宿場、「川崎宿」があったことを今に伝えるものとなっている。
遊女の供養塔がある
遊女の供養塔がある
宗三寺にある遊女の供養塔。お墓の隅っこの方にある。本によると、川崎の飯盛女は享保年間(1716-36)に宿場を繁栄させるため、幕府に出願し許可を得て置いたのがはじまりである。
背景が変わっている。壁を改装したんだろうな
背景が変わっている。壁を改装したんだろうな
飯盛女とは、「日本の宿場に存在した私娼」のことだが、現在の仲居と同じ仕事に従事する者も含む。そんな飯盛女の多くはわずかな給金で働かされ、十年も務めれば大抵のものは過労で廃人となり、三十歳くらいでその短い生涯を終えたという。いきなりつらい歴史に行き当たってしまった。今日の街の発展の陰にはそういう歴史があるってこと、私は知っておきたい。

江戸の大名が泊まった本陣跡は今

宗三寺近くには主に大名、公家、旗本などが宿泊する施設である「本陣」の跡がいくつもある。川崎宿にあった本陣(大名や公家専用の大旅館)の一つで、幕末には14代将軍家茂が京に上る際に宿泊したらしい。
いさご通り
いさご通り
佐藤本陣があったあたりの「砂子通り」、30年経って、「いさご通り」と言葉あたりが柔らかくなっている。そもそも「砂子通り」って絶対読めなくて「すなごどおり」って呼んじゃう。
アーチが無くなった
アーチが無くなった
本では「右手前方に三菱銀行、左手前方に川崎信用金庫が旧街道をはさむ形で並んでいる」と書いてあるのだが、三菱銀行は合併統合して現在は「三菱東京UFJ銀行」になってしまった。30年前にタイムスリップして「三菱銀行は30年後、三菱東京UFJ銀行になっている」って言ってもなんとなく信じてもらえなさそう。
なかの本陣跡
なかの本陣跡
同じくこちらも本陣跡。江戸後期に廃業したなかの本陣は、今は横浜家系ラーメン屋になっていた。

今も昔も信仰の対象・稲毛神社

30年経っても全く印象が変わらない稲毛神社
30年経っても全く印象が変わらない稲毛神社
神社というものも、昔を今に伝えるものであることが多い。うん、想像通りあんまり変わらない。
平安期に漁業集落の守護神として鎮祀され、近世で川崎宿、大島、堀之内などの総鎮守となって今も山王社として親しまれている稲毛神社。この先には競輪場や競馬場があったりもするから、レースの前に参拝する人も多いのかもしれない。
鳥居の土台に歴史が見える
鳥居の土台に歴史が見える
鳥居の台に「川崎宿」の文字。これだけでもすごく古いものだってことが分かる。大坂方の浪人で川崎に土着した波多野傳右衛門の名前が彫ってあるが、この人物は先ほど行った宗三寺にお墓があったのだ。私は特別歴史好きというわけじゃないのだが、少しづつ点と点が繋がっていってとても面白い。
まるで神様の長屋? な摂末社

 

ここは、摂末社がすごく多かった。摂末社というのは神社本社とは別にその神社の管理する小規模な神社のことであるが、こちらはまるで神様の長屋みたいだ。稲毛神社にはこれ以外にもたくさんの摂末社がある。
まるで神様の長屋? な摂末社
30年経って水が枯れた
稲毛神社の一角には近代的な公園がある。当時は水を湛えていたそうだが、今は枯れてしまっていた。30年で、稲毛神社の水が無くなった。

六郷の渡し

六郷渡し場は今
六郷渡し場は今
旧東海道川崎宿にあった六郷の渡し場。広重や北斎といった江戸時代の浮世絵師たちが題材にしたという。
今は立派な橋が架かっています
今は立派な橋が架かっています
今は川崎と東京都・大田区をつなぐ立派な橋だが江戸時代、たびたびの洪水で流失し、徳川幕府はその都度復旧に努めた。しかし、1688年の洪水による流失を最後に、徳川幕府は六郷橋の架橋を断念してしまったのだ。当時江戸三大橋のひとつにも数えられていたのに。
渡し船による川越えは200年続いた
渡し船による川越えは200年続いた
そして以後200年、渡し船による川越えが行われたのだ。明治天皇が京都から東京へ移る際にも、対岸まで36艘の船を並べて杭を打ち、船を安定させて船橋を作った歴史がある。
船橋めちゃくちゃ怖そう。揺れそう
船橋めちゃくちゃ怖そう。揺れそう
「船橋」というものがピンと来なかったんだけどこういうものらしい。想像以上に渡るのに勇気がいそうな代物だった。こちらは「東海道 かわさき宿交流館」で再現を見ることができる。全く知らなかったんだけど、川崎は数年前から「川崎宿」を推していた。
それが今やこんな立派な橋に……人間ってすごいな
それが今やこんな立派な橋に……人間ってすごいな
徳川幕府の人、見てる~? 幕府が断念した架橋、こんなに立派になったんだよ。どんなに雨が降り続いても、この橋は流されることは無いと思うよ。

江戸の大名がこぞって食べた「奈良茶飯」の川崎万年屋

大人気だった「万年屋」
大人気だった「万年屋」
川崎宿での中でも有名だったのは、万年屋とその奈良茶飯。奈良茶飯は奈良県の郷土料理だそうだが、万年屋の奈良茶飯は十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」にも登場して大名が昼食に立ち寄るなど人気を博したという。大名、ドラマで出てきたレストランに行ってみるOLみたいなかわいいとこあるんだな。
万年屋は今
万年屋は今
さて、そんな万年屋跡はマンションになっていた。しかも史跡本に出てくる名称とそのまま変わっていなかった。
江戸を早朝に出発した旅人が川崎宿に入るのがちょうどお昼どき。今はマンションになってしまった万年屋は、宿場の入り口にあることもありたいへん繁盛したということだ。「奈良茶飯」が非常に気になるけど、大豆や粟といった穀物や野菜を塩や醤油で味付けした煎茶や番茶で炊き込んだごはんなんだそう。食べてみたい……。

「奈良茶飯」食べてきた

奈良茶飯が……食べられる……
奈良茶飯が……食べられる……
気になりすぎたので、奈良茶飯が食べられるところはないのかと調べたところあったので日を改めて行ってきた。奈良茶飯の味は30年前の史跡本にも載っていない情報だ! 奈良茶飯が食べられるのは、京急川崎駅からすぐ近くにある和菓子屋さん「東照」さん。
奈良茶飯風おこわ(580円)
奈良茶飯風おこわ(580円)
ここでは、前述の奈良茶飯を再現したおこわを食べることができる。奈良茶飯風おこわ(580円/税別)はしじみのおみそ汁、お漬物がついてくる。おーこれが弥次さん喜多さんも食べたという、江戸時代の人たちに大人気だった奈良茶飯かー(説明口調)。
この本で知らなければ食べたいと思わなかったな……すてきな出会いをありがとう
この本で知らなければ食べたいと思わなかったな……すてきな出会いをありがとう
当時は調味料も貴重品だったので、塩気も控えめだったんじゃないかなと思う。そんな風に江戸に思いをはせながら、栗や大豆などの甘さを感じられるおこわをいただく。素朴な味わいでおいしいけど、味が濃いものも食べたくなる。そこで漬物を食べる。今はいいな、味が濃いものも食べられて。江戸時代の人に家系ラーメンを食べさせたらさぞ驚くんだろうな。

約30年前の史跡本を持って出かけて気付いたこと

○当時よくあった表紙にビニールのカバーがかかっている本、よれないので持ち歩きに向いている
○史跡そのものは変わらないが、壁とかに変化がある
○いさご通りとか、街並みはかなり変わる
○三菱銀行は三菱東京UFJ銀行になった
○稲毛神社は変わらずそこにあった
○稲毛公園の水が枯れていた
○渡し船は碑がある以外は跡形もなかった
○万年屋跡のマンションも変わらなかった
○江戸時代に人気があった奈良茶飯が、東照で食べられるようになった

終わりに

「東海道 かわさき宿交流館(http://kawasakishuku.jp/)」の体験コーナーやりた過ぎた
東海道 かわさき宿交流館」の体験コーナーやりた過ぎた
30年前の史跡の本に載っていた場所がだいたい残っているというのは予想通りだったけど、自分が想像していた以上に「川崎宿」が推されているのに驚いた。旧東海道沿いにある「東海道 かわさき宿交流館」では、江戸時代の旅人や飛脚などの格好を体験できるエリアもあり、非常に楽しげだったがひとりだったため泣く泣く断念した。
今度誰か誘って来ようかと思うんだけど、自分の友人が「今度江戸時代の飛脚の格好して遊ぼう」という誘いを魅力に感じてくれるかどうかはよくわからない。
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