特集 2017年4月10日

消えた「神田」のナゾを追う

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今回は、ものすごく局地的な地理の話をする。
筆者が働く会社は東京都千代田区の「三崎町」というところにある。この三崎町、来年(平成30年1月1日)から町の名前が変わり「神田三崎町」になるのだという。なんでも、三崎町には昭和42年までアタマに「神田」の呼称がついており、それが50年ぶりに復活するというのだ。

しかし、なぜそもそも「神田」が消えたのか? その経緯を調べてみたら、なかなか興味深い事実がわかったのである。
1980年生まれ埼玉育ち。東京の「やじろべえ」という会社で編集者、ライターをしています。ニューヨーク出身という冗談みたいな経歴の持ち主ですが、英語は全く話せません。

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> 個人サイト Twitter (@noriyukienami)

半世紀ぶりに「神田」が復活

ちなみに、町の名前が変わることを知ったのはつい最近。所要で千代田区役所を訪れた際、窓口に貼ってあった張り紙に書かれていたのだ。「平成30年から三崎町は『神田三崎町』に変わります」と。

え? そうなの?

しかしねえ、「変わります」と気軽に言ってくれるが、そこで会社をやっている身としては色々とめんどうな話なのだ。名刺や封筒に印字されている住所も変えなきゃだし、取引先に連絡したり、法務局で法人登記の変更手続きをしたり…、まあ正直、余計な仕事を増やしてくれて迷惑極まりない。
大事なことなので、もっと大きく伝えてほしい
大事なことなので、もっと大きく伝えてほしい
でも、一方で「神田」がつくというのは、ちょっとだけ嬉しい気もするのである。東京の神田というと、都民以外にもそれなりに知られた地名であると思う。棚からボタもち的に、労せずしてバリューのある「神田」の傘下に入れるなら、むしろ歓迎すべきことなのかもしれない。

なぜ「神田」じゃなくなったのか?

なお、前述の通り、50年前まではそもそも「神田三崎町」だったわけだ。どんな経緯で「神田」の呼称が外れることになったのか?
「地名の由来」が書かれた案内板にその答えが書いてあった
「地名の由来」が書かれた案内板にその答えが書いてあった
要約すると、こういった経緯である。

(1)三崎町はもともと明治に制定された「神田区」に属していた。

(2)1947年に神田区と麹町区が合併し、千代田区が誕生。

(3)その際、旧神田区の町は「神田」の呼称を残すべくこぞって「神田〇〇」と改称(神田神保町、神田小川町など)。

(4)三崎町もその流れにならい「神田三崎町」となる。

(5)1962年、住居表示の実施に伴う町名の整理・統合により「三崎町」の名前が消える話がもちあがる。

(6)慣れ親しんだ町名が消えることに住民が反発。町をあげた運動の末、名前を残すことに成功。

(7)1967年、住居表示実施後の名称として「三崎町」に改まる。
なんだかんだで今は「千代田区三崎町」
なんだかんだで今は「千代田区三崎町」
なるほど、わかりやすい。さすが案内板。しかし、解せないのは(5)~(7)の部分だ。名前を残すなら、まんま「神田三崎町」でいいではないか。なぜ中途半端に神田だけをとって「三崎町」としたのか? 現に、他の「旧神田区」の町は、そのほとんどが今もなお「神田」の呼称を残しているのだ。ずーと神田三崎町のままでいてくれたら、こっちだってめんどうな手続きをせずに済んだのに。

その秘密を解き明かすべく、取材班(一人)は町へ出た。三崎町を含む旧神田区域を歩き、文献を紐解き、消えた「神田」のナゾに迫っていこう。
ちなみに、三崎町一帯にはかつて幕府の講武所があり、その後大名屋敷→陸軍の練兵場を経て、市街地として整備されたのは明治後期に入ってから
ちなみに、三崎町一帯にはかつて幕府の講武所があり、その後大名屋敷→陸軍の練兵場を経て、市街地として整備されたのは明治後期に入ってから
かつて旗本や御家人が武を磨いた一帯は、今では学生の町に。若者の胃袋を満たす飲食店が並ぶ。なお、この道をまっすぐ行くと神田神保町
かつて旗本や御家人が武を磨いた一帯は、今では学生の町に。若者の胃袋を満たす飲食店が並ぶ。なお、この道をまっすぐ行くと神田神保町
大学の校舎が多数点在する
大学の校舎が多数点在する
まずは、神田神保町の古書店を訪ね、ここ100年ほどの神田界隈の地図を買い集めてみた。地図に残された神田界隈の町名の変遷を探るためだ。
古地図といえばここ、「秦川堂書店」
古地図といえばここ、「秦川堂書店」
まず、「神田区」の時代に発行された『百年以前 大名屋敷 江戸地図』。
江戸時代の麹町と神田
江戸時代の麹町と神田
江戸時代の大名屋敷の配置を記したものだが、巻末に神田区の町名一覧が掲載されており、そこに「三崎町」の記載もある。つまり、この時は「神田区三崎町」だったことがわかる。
この時は神田区の「三崎町」
この時は神田区の「三崎町」
その後、合併し「千代田区」になってからの地図がこちら。
「神田須田町」「神田淡路町」「神田多町」「神田司町」「神田駿河台」。旧神田区の町がこぞって「神田」を冠称している
「神田須田町」「神田淡路町」「神田多町」「神田司町」「神田駿河台」。旧神田区の町がこぞって「神田」を冠称している
その中に「神田三崎町」の文字も見てとれる。「神田区三崎町」から「千代田区神田三崎町」になったのがこの時期
その中に「神田三崎町」の文字も見てとれる。「神田区三崎町」から「千代田区神田三崎町」になったのがこの時期
そして、昭和42年、住居表示実施後ホヤホヤの地図がコレ。
神田の冠がとれて「三崎町」になっている。現在の「千代田区三崎町」である。
神田の冠がとれて「三崎町」になっている。現在の「千代田区三崎町」である。
こうして改めて地図を眺めてみると、「神田区三崎町」→「千代田区神田三崎町」→「千代田区三崎町」へと至った町名の変遷がよくわかる。また同時に、千代田区制定以来、今も変わらず「神田」を名乗り続けている他の町へのモヤモヤが燻り始める。なんか、ずるくない?

そりゃあ三崎町は神田明神の氏子地域でもないし、神田区の中でも端っこの方だったかもしれないが、ウチらだけ神田からハブられるなんてひどくないかい?

このヤマ、思ったより闇が深いのかもしれない。

さらなる史料を求めて、千代田図書館へ足を運ぶ。
千代田区本庁舎9階にある図書館。平日は夜10時まで開いていて超便利
千代田区本庁舎9階にある図書館。平日は夜10時まで開いていて超便利
ここには区の歴史にまつわる書物や区政の記録なども残されていて、「三崎町」の町名にまつわる文献もいくつか見つかった。中には住居表示の話が持ち上がった50年前、当時の住民が何を思い、どう行動したのか、そのいきさつを詳細に伝える記録もあった。

結論からいうと、ハブられるだの闇だの、そういう話ではまったくなかった。

当時の経緯について特に詳しい『明治生まれの町 神田三崎町/鈴木理生著』を読むと、そこには「三崎町」の名を未来へ引き継ぐべく奮闘する町民たちの姿があり、阿部寛で実写化したらそこそこ視聴率とれそうな、熱い物語が見え隠れする。

少し長くなるが、『明治生まれの町 神田三崎町』より一部を引用しながら説明しよう。ここからはぜひ、下町ロケットのテーマをBGMに読んでほしい。
長くなるので箸休めにうまい玉子焼きをどうぞ
長くなるので箸休めにうまい玉子焼きをどうぞ
まず、三崎町に「住居表示」の話が持ち上がった当時の状況から記述は始まる。

(以下、『明治生まれの町 神田三崎町』P.405より引用)
“オリンピックが終わると同時に、三崎町は大きな試練を迎えた。昭和37年に公布された「住居表示に関する法律」により、法律の基準による町割の再編成と、それにともなう、家屋番号を設定する作業の対象地区として、千代田区内では三崎町・猿楽町・西神田の「小川町」低地北部一帯が、第二次実施区域に指定された”

以降の経緯は三崎町会で定期刊行されていた『月報』により、数年間にわたって詳報されている。

住居表示の実施に伴い、千代田区から提示された原案では「神田三崎町」の名称は消滅するとの方針が示されていたようだ。だが、町会青年団を中心とする町民はこれに反発。特に「三崎町」の名前を残すべしとの声は根強く、「水道橋」「三崎町」「西神田」などの候補から決をとった町民へのアンケートでも「三崎町」が78.4%と圧倒的だったという。

ところが…

(以下、『明治生まれの町 神田三崎町』P.407より引用)
“第七六号(六月刊)の『月報』に、これも唐突に、「千代田区西神田」にという見出しで、「全体役員会で決定、直ちに表示委員会へ」という小見出しがついて、アンケート結果とは違った結果になったが、「西神田」案の方向にきまったということが、簡単に報告されている。”
なお「西神田」という町名は当時からあり、「西神田」案は三崎町をこちらに統合するものだった
なお「西神田」という町名は当時からあり、「西神田」案は三崎町をこちらに統合するものだった
町民の意向をいっさい無視するような、町会幹部の一方的な決議である。区議会でも「西神田案」が議決されるなど、いったんは「三崎町」消滅の方向でまとまりかける。

三崎町青年団はこれに対し、水面下で“クーデター”を画策。三崎稲荷神社で「三崎町町名存続特別委員会」を結成し、町民に向けた署名運動を開始する。
三崎稲荷神社
三崎稲荷神社
そして、町内人口の80%に達する「賛成」署名を携え、10月下旬から11月上旬のわずか半月の間で怒涛の「陳情ラッシュ」を仕掛けていく。マスコミを使って世論を起こし、区議会議員全員の自宅を訪問して陳情するなど、とにかく熱量がすさまじい。

(以下、『明治生まれの町 神田三崎町』P.408-P.409より引用)
“10・27 町会全体役員会で、紛議の上、決定を改め、全員一致で存続運動を起こすことを決定する(役員会参加者七〇余命)。
同日、山口、加藤両都議、都庁などに陳情。一~二丁目は合同して区議会議員全員の自宅訪問の上、陳情。“

“11・3 恒例の団旗のもと、明治神宮暁天参拝後、少年部と合流し、遠山区長宅に行き、存続の陳情。”

“11・9 団旗のもとに、区役所に出勤、区長不在のため、川俣、石川両区議宅に行き陳情。”

“11・22 区議会、再議決により「三崎町」町名は存続と決定。”

かくして、青年団の活躍により「三崎町」の名前は守られたのだ。

その後、住居表示自体は予定通り実施され、「神田」の冠称は消滅したわけだが、当時は「三崎町」の名前を残すことが最優先で、「神田」の呼称にはさほどこだわっていなかったのではないか。『月報』からは、そんな当時の町民感情が推測できる。神田を継承する「西神田」よりも、明治以来の「三崎町」のほうが圧倒的支持を得たことからもそれは明らかだろう。そもそも「神田三崎町」は、神田区が千代田区に統合されて以降わずか20年ほど使用された町名に過ぎず、「神田」の呼称に対してそれほどの愛着は育っていなかったのかもしれない。
特に何があるという町ではないけど、神田川沿いの桜はキレイです
特に何があるという町ではないけど、神田川沿いの桜はキレイです

神田エリアのほとんどは「住居表示」を拒否

一方、三崎町など一部を除く「旧神田区」の多くの町が未だ「神田」を冠しているのはなぜか?

じつはこれらの町では住居表示自体が未だ実施されておらず、千代田区統合時点の町名が未だに使われ続けている。町名整理で「神田」の冠称が消えることを町民がよしとせず、住居表示そのものを拒否したエリアである。
「神田〇〇」という地名がやたら多いのはそのため
「神田〇〇」という地名がやたら多いのはそのため
「神田」とつくと、余計にうまそうな気がする
「神田」とつくと、余計にうまそうな気がする
駅名では「神田」が省略されているが、正式には「神田小川町」「神田淡路町」
駅名では「神田」が省略されているが、正式には「神田小川町」「神田淡路町」
住居表示が実施されず、現在も昔の地番が使われている靖国通り周辺。靖国通りにまたがる町域は、通りより北が偶数地番、通りより南が奇数地番とやや特殊な割り当てになっていて、初めて訪れる人には少し分かりづらい
住居表示が実施されず、現在も昔の地番が使われている靖国通り周辺。靖国通りにまたがる町域は、通りより北が偶数地番、通りより南が奇数地番とやや特殊な割り当てになっていて、初めて訪れる人には少し分かりづらい
結果、神田界隈は東京都23区の中で最も住居表示の実施率が低い。まあ、三崎町も結局は「神田三崎町」に戻るわけで、それが叶うのも神田の名前を守り続けてくれたこれらの町のおかげといえるかもしれない。

さっき、「ずっと神田でずるい」みたいなことを書いてしまったが、三崎町の人間としてはむしろ感謝すべき、ですね。

町名に歴史あり

なお、この度の「神田」冠称については、2004年に地域から区長・議長に提出された要望書(および署名)が発端となっている。以後、住民意向調査や34年ぶりに開催された「住民表示審議会」などを経て、平成26年に「町名変更」が議決されている。つまり、町民の陳情が届いた形だ。かつて「三崎町」の名を守ったのも、今回「神田」の冠称が復活するのも、きっかけは陳情。陳情すごい。

ともあれ、こうした町名にまつわる背景を知ると、「三崎町」そして「神田に対し、ぐいぐいと愛着がわいてくる。会社の手続きがめんどくさいことには変わりないが、来年から「神田っ子」になれる喜びのほうが、今は大きい。
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