特集 2017年5月25日
 

すしをダンボール箱に入れたらリアルになった

他の人に入れてもらって、あける

さて「入っているな」感を楽しむことはできたのだが、やはり自分で箱に入れたものを自分で開けるというのはおかしいのではないか、と思った。

そこで次からは編集部安藤に頼んで、ぼくが見てないところでものを箱に詰めてもらい、それを僕が受け取って開けるという段取りにした。
ズッキーニを手にする安藤
ズッキーニを手にする安藤
ズッキーニを箱に入れる安藤
ズッキーニを箱に入れる安藤
箱を受け取るぼく 箱を渡す安藤
箱を受け取るぼく 箱を渡す安藤
あける おおっ
あける おおっ
ズッキーニ
ズッキーニ

ズッキーニでした

入れてもらう作業はしてもらったとはいえ、物自体を用意したのは自分なので、おどろきはそこそこかなと思いきや、けっこうな感動がある。

あける途中で「おっ(ズッキーニだ)」という気持ちが湧き上がるのだ。無感動になりがちな現代社会。なんであれ、気持ちが湧き上がるのは大事である。

ネットの世界では開封の儀だとかUnboxingだとか、ガジェットを開けるのがひとつのお楽しみになっているが、そのモチーフはズッキーニでもいいのかもしれない。
ただのズッキーニだとお楽しみはない
ただのズッキーニだとお楽しみはない
普通に受け取ると、なんだこれ?という気持ちになるが、一旦箱に入れることでちょっとしたお楽しみになる。
ためしに直接受け取ってみたが……「???」
ためしに直接受け取ってみたが……「???」
ズッキーニだけだとなんなので、いろいろなたべものでも試してみた。ぼくが見てないところでランダムに箱に入れたあと、箱を渡してもらう。

そしてそれをあけるのだ。
京都で自分用に買った汐吹昆布のお土産でも
京都で自分用に買った汐吹昆布のお土産でも
たべかけのゆでたまごでも
たべかけのゆでたまごでも
箱があれば当たり前のものが当たり前でなくなる魔法がかかるのだろうか。一抹のうれしさがあった。

「いないいないばあ」という遊びがあるが、精神分析学者のフロイト先生は、この原初的な遊びに「不在と再会」の象徴を読み取っている。

箱を開ける前の不在という不安から、開けた後の再会という喜びへ移行。ここに人間の根源的な何かがあるのだ。

世の中の恋人たちが、会えなくては寂しくなり、会っては嬉しくなるのは、赤ちゃんがやっている「いないいないばあ」の延長そのものなのかもしれない。

より大きな箱にしたら、より感動するか

最後に「もっと大きい箱ならより感動があるか」という実験をしたい。先程までの箱より一回り大きな箱を用意した。
抱えるくらいの箱
抱えるくらいの箱
スーパーに、塩とレモンで食べる寿司というおしゃれなのが売られていた。これをダンボールに入れよう。きっと大きなダンボール箱に寿司が入ってたら、うれしいんじゃないか。
これを入れて、わたしてもらいます
これを入れて、わたしてもらいます
受け取って開ける
受け取って開ける
寿司だ!
寿司だ!
さきほどまでと同じ驚きはある。この不釣合いなサイズ感はたのしい。

しかし、なんだろう。食品サンプルのように見える。

ここで「まるで本物の寿司のようだ」という感想が浮かぶ。寿司そっくりだ。本物の寿司なのに。

年を取った人にしか「若い」という褒め言葉を使わないのと同じように、この寿司にも「リアル」という褒め言葉を使いたくなる。

寿司が「リアルな寿司」になる。これもまたダンボール箱が生み出す空間のマジックである。

当たり前が当たり前じゃなくなる

さて、ものをひとつだけ大きめの箱に入れる利点をまとめるとこうなる

・当たり前のものに違和感が出て楽しい。
・開けたときに「おっ」という発見のような感覚があり嬉しい。

概ね大きい箱に入れたほうが開ける瞬間の観点に立てばいいことしかない。場所をとったり運びづらいことを忘れれば、なんでも大きめの箱に詰めるべきであると言える。

次回は「ものを棒にぶら下げたときの悔しさ」について考えたいと思います。
最後に編集部安藤さんに箱に入れたメロンパンをあげた。感想は特に聞いていないが楽しそうだった。
最後に編集部安藤さんに箱に入れたメロンパンをあげた。感想は特に聞いていないが楽しそうだった。

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