特集 2017年12月6日
 

幻の「1940日光オリンピック」開催候補地を巡ってみた

江戸時代から日本を代表する景勝地だった日光。その威信をかけていた(地図データは? OpenStreetMap contributorsより)
江戸時代から日本を代表する景勝地だった日光。その威信をかけていた(地図データは? OpenStreetMap contributorsより)
戦争の激化によって幻に終わった1940年の東京と札幌のオリンピック。実はそれとは違うオリンピックが開催される可能性が大いにあった。

それが「日光オリンピック」。1940冬季の招致争いで最後まで札幌と覇を争い、札幌に開催地が決まった後も、不安定な情勢での「万が一の代替開催地」としてオリンピック開催の準備がなされていた。

当時の日光市民のオリンピック熱は、札幌市民を圧倒するほどとされ、夢の祭典への期待が大きく高まっていた。

スポーツ観戦と戦前の歴史が好きな僕としては、その残り香がほんの少しでも残っているなら嗅ぎに行きたい。

勝手に平昌オリンピック直前特別企画。「日光オリンピック」の開催候補地を巡る旅に出た。
ライター、番組リサーチャー。打率210 本塁打0 打点3ぐらいの人生ですが、いつかはホームランを打ちたい。好きな即席麺はサッポロ一番みそラーメン。そのほか卓球、競馬、ローカルフードが好き。

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> 個人サイト 文化放想ホームランライター

往復電車賃&巡り放題の4150円フリーパスで行く

日光オリンピック招致当時からあった浅草駅から旅のはじまり
日光オリンピック招致当時からあった浅草駅から旅のはじまり
1931年にできた浅草駅(当時は浅草雷門駅)からスタート。

今回の旅でお世話になるのが「まるごと日光東武フリーパス」。東武線沿線からの往復運賃+日光じゅうに広がるフリー区間が4000円程度で乗り放題になるチケットだ。
オリンピック候補地時代の、日光旅行をすすめる広告(読売新聞1936年2月6日号より)
オリンピック候補地時代の、日光旅行をすすめる広告(読売新聞1936年2月6日号より)
当時から安く旅行できるとうたっていた東武鉄道。僕は当時の日光へ行く旅行客も食べていたかもしれない、「助六寿司(510円)」を旅のお供にチョイス。鈍行に揺られながら味わった。
激安旅には、貧乏人もサクッと買える助六寿司が似合う
激安旅には、貧乏人もサクッと買える助六寿司が似合う

ハイジの家風の東武日光駅

ありそうでない駅舎の設計だ
ありそうでない駅舎の設計だ
ちょっとメルヘンな造りの東武日光駅へ到着。

ここから、1935年当時の日光が総額201万9500円(強引にいまの価値にすると50億円位)を想定したビッグプロジェクトで提案した、オリンピック競技候補地を見ていこう!
めざすは82年前に想定されていた候補地(朝日新聞栃木版1935年11月20日)
めざすは82年前に想定されていた候補地(朝日新聞栃木版1935年11月20日)
当時は「日光が第一候補」という報道もあった(下野新聞1936年2月16日号)
当時は「日光が第一候補」という報道もあった(下野新聞1936年2月16日号)

スケート会場候補地には当時“東洋一”のリンクがあった

まずは日光オリンピックのスケート会場になるはずだった候補地へ。それは、現在「細尾ドームリンク」となっている付近にあった。
(武揚堂社による日光中心部地図より)
(武揚堂社による日光中心部地図より)
1932年のオープン当時は、東洋一のスケートリンクとうたわれたリンク。1周400mのオーバルコースを日本で初めて実現した場所だ。
ホントにドーム型のリンクが現われた
ホントにドーム型のリンクが現われた
「こっちでホントに大丈夫か…?」という山あいの道の先に、突然現れる。旅人に感じさせるその唐突感こそが、施設の立派さを示しているのだろう。
 完成から間もないころの細尾スケートリンク。野外リンクだった(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
完成から間もないころの細尾スケートリンク。野外リンクだった(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
今ではこんな感じ
今ではこんな感じ
特別に許可をいただき、中を見学させていただいた。

今では「アイスホッケー場」に様変わり

当時は東洋一のスピードスケート施設だったが、現在その役割は市内にある「日光霧降スケートセンター」が担い、ここはもっぱらアイスホッケーの練習場になっているそう。

日光はアイスホッケーが盛んで、あの「日光アイスバックス」を引退した選手もコーチとして後継を指導している。練習風景からも「今はアイスホッケーが日光のスポーツ!」という活気を感じる。
シュート練習をしてパックが壁に当たると、「ドォォォン」と恐ろしい音が響き渡る
シュート練習をしてパックが壁に当たると、「ドォォォン」と恐ろしい音が響き渡る
実はこの細尾リンクは、練習用の「予備リンク」として使う予定で、競技用のリンクは改めてこの近くに作ることになっていたとか。

だが、そのリンクが壊れた場合などに、こちらでも競技を行う可能性があったという。
こちらが当時のスケート場設計図(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
こちらが当時のスケート場設計図(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
売店や電話室などの設計もすでに為されていた(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
売店や電話室などの設計もすでに為されていた(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
アイスホッケーの会場にもなる予定だった。(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
アイスホッケーの会場にもなる予定だった。(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)

スケート協会が勝手に「日光開催」と決めてしまった?

この東洋一の細尾リンクを持ち、すでに大きなスケート大会を開いていた日光は、スケートの関係者からは圧倒的に支持されていた。
大日本スケート連盟が、「オリンピックのスケートは日光でやる」と勝手に決めてしまう始末。(下野新聞1935年4月5日号)
大日本スケート連盟が、「オリンピックのスケートは日光でやる」と勝手に決めてしまう始末。(下野新聞1935年4月5日号)
しかし逆にスキー施設は未だ貧弱だったため、全く新しい場所を切り開いて作らねばいけない状態。未知数な部分が数多いため、スキー関係者は逆にみんな札幌を推していたという。

続いては、日光にとって劣勢であったスキー競技の会場候補地を見ていこう。

日光が誇る名山たちがスキー会場だった

ウインタースポーツの王様「スキー」の会場たち。まずは滑降競技の会場候補だ。

日光でも男体山の次に存在感を示している「太郎山(標高2368m)」。その山麓2000m付近から、滑降(ダウンヒル)のコースができる予定だった。
(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
奥日光に「光徳温泉」というちょっとマニアックな温泉があり、その唯一の宿泊施設・日光アストリアホテルのそばから映したもの。
はるか向こうに見える大きな山が「太郎山」
はるか向こうに見える大きな山が「太郎山」
 だいたい、こんな感じでコースが予定されていた
だいたい、こんな感じでコースが予定されていた
ダウンヒルコースは太郎山→光徳沼に至るほど長かった。

なおこの日の日光はめちゃくちゃ寒く、ときおり雪も強く降っていた。平日午前中の日光は、人影はなく、通る車さえまばら。大いに心細さを抱えながら次へ歩く。
近くの光徳牧場。草を食むのに夢中で、全然僕にかまってくれない
近くの光徳牧場。草を食むのに夢中で、全然僕にかまってくれない
牧場の牛にも無視されつつ、晩秋の奥日光を寒さと孤独に耐えながら歩くと、戦場ヶ原近くまでやってきた。

ここは観光協会の方に「ここまで来れば男体山が北西方向から綺麗に見える」と太鼓判を押された所。光徳入口バス停を過ぎたあたりから、男体山はその全貌を現した。
晴れた。木がジャマな北西方向から、男体山が綺麗に見える数少ないスポット
晴れた。木がジャマな北西方向から、男体山が綺麗に見える数少ないスポット
なおこの男体山の北西部で、スキーのスラローム競技が行われる予定だったと「施設計画書」の文にも載っている。
左がディスタンスコース図に書かれている太線。右が鳥瞰図に書いてあるスラロームコース(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
左がディスタンスコース図に書かれている太線。右が鳥瞰図に書いてあるスラロームコース(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
さらに資料中の「コースを示しているらしきもの」を、実際の男体山に照らし合わせると……おそらくこのあたり!
だいたい、こんな感じのスラロームコースができていたはず
だいたい、こんな感じのスラロームコースができていたはず
傍目には人工物があまり見当たらない男体山に、オリンピックコースができていたことを思うとなかなかのカルチャーショックを思う。

スキージャンプ台候補地をさがせ

そして当時のスキージャンプ台(シャンツェ)を探す。しかし実は施設計画書にも、明確な場所が示されていない。
どうやらスキージャンプ台っぽい、謎の施設(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
どうやらスキージャンプ台っぽい、謎の施設(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
ただ鳥瞰図を見ると、「ski-stadion」なるジャンプ台らしきものが龍頭の近く(戦場ヶ原の西側?)あたりに描かれている。この場所が候補に上がっていたのだろう。
龍頭への建設が濃厚か(下野新聞1936年3月4日号)
龍頭への建設が濃厚か(下野新聞1936年3月4日号)
記事によっては「龍頭滝上の高山の東北斜面」と明示しているものもある。これらを踏まえて図で表したのが、これだ。
戦場ヶ原展望台からちょっと南側に歩いたところが撮影のベストスポット
戦場ヶ原展望台からちょっと南側に歩いたところが撮影のベストスポット
のどかな戦場ヶ原の向こうから、オリンピックジャンパーたちが次々と飛び出す所を、眼を閉じて想像してみよう。そんな冗談のような光景が広がっていたかもしれないのだ。

三本松で辰ちゃんとカレーを食べる

奥日光では貴重な休憩所である三本松。
店頭に立つ、辰ちゃん漬け人形の労をねぎらう
店頭に立つ、辰ちゃん漬け人形の労をねぎらう
ここで、バッテリーが残り30%を切ったスマホを充電できるお店を探した。OKをもらえた唯一のお店「三本松茶屋」で、「栃木のトマトカレーセット」ごはん大盛り1150円を注文し、旅の疲れを癒やす。
150円追加で、ごはんが2倍の量でドンと登場。
150円追加で、ごはんが2倍の量でドンと登場。
お客さんもまばらだったため、スマホ&PCを充電しながら食事をした。トマトの酸味の強い味に、これはこれで妙味を感じつつ完食。バッテリーも70%くらいにまで回復して、再びバスへ揺られる。

日光オリンピックのために生まれた、中禅寺金谷ホテル

オリンピックを開くとなれば、宿泊施設が必要となる。

もともと1930年代の時点で日光は外国人が多く集まる一大観光地として名を馳せていたが、世界の祭典を迎えるためにあらためて作られたホテルがあった。それがこちら!
中禅寺金谷ホテルです!
中禅寺金谷ホテルです!
 伝統を感じる外壁の状態
伝統を感じる外壁の状態
日光で最も有名な宿泊施設「金谷ホテル」が経営を行ってきた中禅寺金谷ホテル。日光オリンピックの計画が頓挫してからも、新たな国際的観光ルートを確保するために建設された。

そして、日光オリンピックが行われるはずだった1940年に、奇しくも開業となった。当時は「日光観光ホテル」という名前だった。
国際的なホテルとしては珍しい、純木造製(近代日本の国際リゾート 砂本文彦 青弓社より)
国際的なホテルとしては珍しい、純木造製(近代日本の国際リゾート 砂本文彦 青弓社より)
地下1階、地上3階建て、洋室22室、和室17室。国際観光ホテルのなかでも小規模で、唯一伝統的な純木造で設計されていた。
左が和風客室の縁側、右が酒場の吹き抜け。和室の比率が高かった(近代日本の国際リゾート 砂本文彦 青弓社より)
左が和風客室の縁側、右が酒場の吹き抜け。和室の比率が高かった(近代日本の国際リゾート 砂本文彦 青弓社より)
その「純木造」がアダになったのか、1950年に火事で全焼する。その後再建され、現在は1992年に建て替えられた3代目の建物だ。

金谷ホテルは、日光のスケート界を引っ張ったさきがけ

ちなみに金谷ホテルは、日光では有名だったスケートリンクを1916年に作ったことでも有名。1932年に細尾リンクができるまで、日光でスケートといえばこのリンクだった。
日光のスケート黎明期を引っ張った、金谷ホテルのリンク(近代日本の国際リゾート 砂本文彦 青弓社より)
日光のスケート黎明期を引っ張った、金谷ホテルのリンク(近代日本の国際リゾート 砂本文彦 青弓社より)
招致がスケート施設の充実ぶりを突破口にして行われたことから考えると、まさに「日光オリンピック」には金谷ホテルが欠かせない存在なのだ。

ついでに金谷ホテル伝統「百年ライスカレー(のパイ)」を食べる

金谷ホテルといえば高級な「百年ライスカレー」で有名だが、店によって3000円はする。低予算なこの旅ではとても食べられない…代わりに、こちらへお邪魔した。
東武日光駅の休憩所のところにある
東武日光駅の休憩所のところにある
東武日光駅構内にある、金谷ホテルの味が気軽に楽しめるコーナー。ここにある、貧乏人で
も手の届く「百年ライスカレー」ゆかりの一品がこちら!
百年カレーパイ(324円)
百年カレーパイ(324円)
  おいしい!けど、すぐ無くなっちゃう……
おいしい!けど、すぐ無くなっちゃう……

あの百年ライスカレーさながらのルーがゴロゴロの具材とともに入ったパイ。ウマい!伝統のおいしさだが、案の定ちっちゃい…味わって食べる抵抗もむなしく、2分で食べ終えてしまい、次を目指した。

ボブスレー会場は、47年前の廃線軌道の南側

スキー会場、スケート会場は撮った。残りは「ボブスレー」の会場である。

1932年に誕生し、1970年に廃止された東武日光鋼索鉄道線の南側斜面にあたる場所が開催候補地だった。
(朝日新聞栃木版 1935年11月20日号より)
(朝日新聞栃木版 1935年11月20日号より)
鳥瞰図で見ると、ここだ。
矢印で示したルートがボブスレーコース(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
矢印で示したルートがボブスレーコース(日光ニ於ケル冬季オリンピック施設計画書(栃木県)より)
しかし、これを撮るのはとても難しかった。
線で引いた、馬返〜明智平の間を通っていた(武揚堂社による日光中心部地図より)
線で引いた、馬返〜明智平の間を通っていた(武揚堂社による日光中心部地図より)
道の駅日光内にある、日光市観光協会の事務局でお話を聞いた。

それによると、撮影に使える道は限られていて、右下の「122号線」からでは遠すぎる。そのため、「第二いろは坂」から写すのが現実的。しかも「バスに乗りながら写すのが最善」とのこと。マジか…

かくして朝6時55分の便に乗り、バスに乗りながら、第二いろは坂でそれを撮影することにした。しかし・・・
その日は朝から雨が降り、厚いモヤがかかっている状態。これで撮影するのはムリだった。
その日は朝から雨が降り、厚いモヤがかかっている状態。これで撮影するのはムリだった。
思わずこの表情になる僕
思わずこの表情になる僕
しかし、昼過ぎから晴れるという予報があった。運を天に任せてその時間を待っていたら、晴れた。14時台のバスに乗り、再び「このへんでは?」と思われる場所を撮影。これだ。
これが精一杯
これが精一杯
大いに木がジャマしている! しかし、複数枚撮った中で一番マシなショットがこれだった。そう、当時の跡が見える場所は深い木に覆われていて、これが関の山だった。
嗚呼、日が暮れる
嗚呼、日が暮れる
起死回生の策は、明智平にあるロープウェイ乗り場。この裏手から、登山鉄道の軌道に入れるという情報があったからだ。だが柵ができており、ダメだった。さらに1時間後のバスを待つうちに日が暮れ、再度撮影のチャンスは潰えた。

しかし、頼みの綱があった。ロープウェイで働く従業員の方たちから、「日本料理なんたい」の曲渕さんが登山鉄道事情に詳しいとの情報をいただいていたのだ。
中禅寺温泉バス停近くにある料理屋さん
中禅寺温泉バス停近くにある料理屋さん
右が料理長の曲渕さん
右が料理長の曲渕さん
それによると、登山鉄道の軌道はだいたいこうなっていたという。
大いに木がジャマするこの写真から、割り出してくれた
大いに木がジャマするこの写真から、割り出してくれた
左上にあるロープウェイの明智平駅のところから、右下に下っていく形。つまり、その軌道の南側斜面がボブスレー会場になっていたとのことだ。

さらにこの後、生まれも育ちも日光の田中さんにもお話をお伺いし、確かにそのような軌道であったとのこと。さらにこんなお宝画像までいただいた。
まさかの、登山鉄道の軌道(タナタカおやじのブログより)
まさかの、登山鉄道の軌道(タナタカおやじのブログより)
今も残る軌道の写真をいただけた! この線路に沿う形で、ボブスレーコースができるはずだったのだ(この画像で言うと右下の方が南側斜面となる)。
聞いたついでに注文した日光ゆば定食(1450円 税抜)。ゆばのウマさが僕の予想を飛び越えた。特にワサビをつけて食べるゆば刺身は、魚の刺身以上のおいしさ。
聞いたついでに注文した日光ゆば定食(1450円 税抜)。ゆばのウマさが僕の予想を飛び越えた。特にワサビをつけて食べるゆば刺身は、魚の刺身以上のおいしさ。
曲渕さんが気さくな方で「宣伝しておいて笑」と言っていたので宣伝しました。ただ、ホントにおいしかったことは確か。旅先くらい、イイものを食べたいときは是非。

開催候補地をマップにした

日光の有名観光地から、マニアックな場所まで(地図データは? OpenStreetMap contributorsより)
日光の有名観光地から、マニアックな場所まで(地図データは? OpenStreetMap contributorsより)

全町民こぞっての猛招致運動

日光の熱狂ぶりを伝える記事(朝日新聞東京版1935年11月4日号)
日光の熱狂ぶりを伝える記事(朝日新聞東京版1935年11月4日号)
そんな日光のオリンピック招致運動はとにかく熱狂的だったらしく、確かに当時の読売や朝日の栃木版を見ても、多くの報道がなされている。
使節団の登場も大々的に伝えられる(下野新聞1936年2月14日より)
使節団の登場も大々的に伝えられる(下野新聞1936年2月14日より)

落選…しかし「万一のときの予備地」になる

日光はスケート施設の充実ぶりと、東京から近い利便性を武器に招致では大いに健闘した。だがスキー施設面での遅れには勝てず、一騎打ちの様相を呈した結果、残念ながら多数決で負けてしまったという。
一旦は札幌に決定する(朝日新聞栃木版1936年3月19日号)
一旦は札幌に決定する(朝日新聞栃木版1936年3月19日号)
烈火の如く怒る、日光!(読売新聞1936年3月22日号)
烈火の如く怒る、日光!(読売新聞1936年3月22日号)
しかし「万が一のときの代替開催地」に選ばれた日光は、その後も招致活動を展開。オリンピック委員会会長の「オリンピック開催地は札幌とは限らない」などの発言もあり、熱は息を吹き返したという。
オリンピック委員会会長の「開催地は札幌とは限らない」の飛び出し、再び招致に熱が入る(左が読売新聞栃木版1936年4月8日号、右が1936年4月11日号)
オリンピック委員会会長の「開催地は札幌とは限らない」の飛び出し、再び招致に熱が入る(左が読売新聞栃木版1936年4月8日号、右が1936年4月11日号)
その後も日光の熱烈なオリンピック招致は、1937年に可能性が潰えるまで、続けられた。

オリンピック招致により、日光のスキー環境は大きく発展した

1939年の議会議事録には、観光課事務概要の中に「冬季オリンピック招致運動以来、日光はスキー場としての真価が認められ、約15,000人に及ぶスキー客を招致せり」とあるように、スキー場として認められていった。

日光オリンピックの誘致活動は、日光にとってムダでは無かったのだ。

やっぱり地元の図書館はスゴかった

地味な展開になるので構成上は後回しにしたが、1日目は図書館を色々巡った。
今市図書館
今市図書館
日光市立今市図書館。ここは、栃木県の地元紙である下野新聞の縮刷版を大量に持っている数少ない館。

本格的なオリンピック招致活動を行っていた1935年4月〜1936年3月ごろまでの紙面に全て目を通していった。
!

日光図書館

こちらが日光市立日光図書館。ここにしかない資料もいくつかあり、解明作業でとても助けになった。

国会図書館には日本中の本がなんでもあるイメージだが、実は地方の郷土資料などはその土地の図書館で無ければ読めないケースも少なくない。

ネットの普及で軽視されがちな地元の図書館だが、このように強大なポテンシャルを持っているので、ガンガン使おう。じゃないと無くなっちゃうぞー!

ここからは、あなたの想像で「1940日光オリンピック」を補完してほしい

今も動くコスモス自販機と、ヤマザキサンロイヤルストア
今も動くコスモス自販機と、ヤマザキサンロイヤルストア

日光は、いろんな過去に会える街。数百年前にできた日光東照宮だけじゃない。「まだ動くコスモス」や「ヤマザキサンロイヤルストア」のある、身近な懐かしさのある町並みがあった。そして80年以上前の驚くような過去の歴史に出会えた。

戦前特有の怪しげな記録やニュースに繰り返し触れ、情報不足に苛まれながらもどうにか読み解く作業はキツかったけど楽しかった。

もうここからは、皆さんの脳内が日光オリンピック会場だ。ぜひ好きに開催風景を想像して、1940年の幻のオリンピックに思いを馳せてほしい。そして2018年の平昌オリンピックを楽しもう。
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