「新宿アシベ会館も、台湾華僑によるビルです。今はありませんが、日本でのライブハウスのはしり『新宿ACB』があった場所なんです。ここは芸能事務所がタレント育成なんかにも使ってたんですよ。
あと、このヒューマックスビル(ライブハウス「リキッドルーム」などが入ってるビル)、ホテルケント(映画館「ジョイシネマ」の入っているビル)、ここは林以文氏という方の作ったものです。
戦前に、『ムーランルージュ』という劇場が今の新南口方面にあったんです。戦後、そういったエンターテイメントを復興しようとしたんですね」
何度も来たことがある映画館、ライブハウスなんかも華僑の人のものだったのか、と知って驚いた。
簡さんは続ける。
「みなさんご存じだと思いますが、ここ歌舞伎町は、日本の暴力団の拠点になっています。それが華僑とどうやって上手くやっていたか、不思議に思うでしょう? 戦後すぐのときは、戦勝国の利権を使って……例えば華僑が台湾料理の店を出すというとき、10席しかないのに20席だと申請する。そうすると、10席分の食糧が余る。あまったのをヤクザに頼んで闇市に流したり、またはボディガードを頼んだり……当時は、そうやってきたんです。暴力団がいくつもあるのに、なぜ治安が保たれてるのかというのも、華僑に関係しています。間を取り持って、調整する人がいたわけですね」
私は質問した。
「あのう、調整したのって誰なんですか?」
「え! ええとですねえ〜、昔、巣鴨プリズンという刑務所が豊島区にありましたが、台湾人は連合国のBC級戦犯として収容されていたんですよ。そこで仁侠の方と知り合って、仲良くなって、っていうのが一番最初だったらしいんですよ。ハハハ……」
黄さんが補足する。
「この人のお父さんていうのがですねえ、戦時中にボルネオでイギリス人将校の捕虜のまゆ毛を半分剃っちゃて、戦後にBC級戦犯として逮捕されて、日本に送り返され時に巣鴨プリズンに入っちゃって、そこで仁侠の……」
「おっ、お父さん、そういう話はオフレコ!!」
東生さんがアセってさえぎった。
……歴史ってそういうふうに動いて、町はそういうふうに出来るのか。すごい。
「でも、今、中国大陸から暴力団などの若い新華僑が入ってきて、バランスが崩れてます。発砲事件なども起きてますからね。やはり、恐い町だと思いますよ。ハハハ……」
ものすごく面白い話だった。
そもそも、よく考えたら、「華僑」と呼ばれる人たちとは、経済的には何度もお世話になっているはずなのに、料理店などでも顔を見ているはずなのに、ちゃんとお話を聞いたのは初めてだった。
私のように優等生的(?)に生きてきた世間知らずで人見知りの女にとっては、友達がたまたま華人であったり、社会的な活動とかしていない限り、多文化とごくフツーに触れあったり知ったりすることは、難しいのかもしれない。情けない。
ツアーが終わってから、歌舞伎町を歩いてみた。ほんの少しだけど、町を作った人のことを知ると、町がまるっきり変わって見えた。
でもやっぱりキラキラ、ギラギラしてる町だ。追い付けないバイタリティの町だ。
今度また、台湾料理を食べに来ようと思った。
|