表情が足りないんじゃないか
僕には袖がとれたときのリアクションが足りないのかもしれない。「がびーん」という顔をする必要があるのだと思う。
安田大サーカスの団長だってスーツがふたつに割れたら紙吹雪でふんどしになるだろう。あれは必然だったのだ。物事には理由がある。
「がびーん」もなく、暗い顔でとれた袖をおさえて歩いている僕はまるで「ねじ式」である。
瞬発力はないが
「がびーん」は反射神経的センスなのであきらめるとして(きっぱり)、取れかかった袖で歩く「とほほ」感はできるかもしれない。
たとえるならばランニングはできなくてもウォーキング、油絵はできなくても絵手紙、ナンバーワンじゃなくてオンリーワンだ。
こんな人 五反田駅前にどう見てもオンリーワンだが、「とほほ」感を意識して歩いていると、そんなに悲壮感を感じなくなってきた。頭のなかでペーソスのあるメロディが聞こえてくるようだ(羞恥心を麻痺させるように脳内でやばい物質が出ていたのかもしれない)。
通り過ぎた女性にぼそっと
「あ、袖」
と言われた。人間、びっくりすると咄嗟にそのままのことを言ってしまうものなんだな、と思った。
しかしさっきは周りの人が息を飲むような気まずさだったことに比べると「あ、袖」と言ってもらえるのはややコントに近づいた証拠かもしれない。
瞬発力はないが
住さんももう仕事に戻らなければならないので撮影はここまでにして、日付をもどして袖がとれるスーツの制作過程を紹介したい。
どかーん、とはじけることができなかったのは作る過程での葛藤をひきずっているのかもしれない。
コントスーツを作るときになにがあったのか、制作過程の話に入ります。 |