特集 2014年12月12日

競馬場の形が残っている住宅地に行ってみた

競馬場の形がそのまま住宅街に。見事。
競馬場の形がそのまま住宅街に。見事。
ぼくは千葉の西船橋で育ち、現在は引っ越して川崎区に住んでいる。

ときどき「競馬が好きなの?」と聞かれる。言われてみれば競馬場を渡り歩いているように見えなくもない(西船橋は中山競馬場への玄関口であり、いまは川崎競馬場が近い)。

馬券は一度も買ったことがなく競馬には興味がないが、競馬場には興味がある。特に"元"競馬場に。
もっぱら工場とか団地とかジャンクションを愛でています。著書に「工場萌え」「団地の見究」「ジャンクション」など。(動画インタビュー

前の記事:ある意味大切に扱われている古墳を見に行く

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東京で一番有名な元競馬場

東京で一番有名な競馬場跡地といえば目黒のものだろう。
競馬場の形が東側に一部残っているのがわかるだろうか。
JRの目黒駅から700mほど西に行き、目黒通りから南に少し入った住宅街に、上の地図のように、競馬場の跡が道路として残っている。
同じ範囲の1910年代の地図(iPhone アプリ「東京時層地図」大正5年-10年より)
同じ範囲の1910年代の地図(iPhone アプリ「東京時層地図」大正5年-10年より)
Wikipediaによればこの目黒競馬場は1907年にできて1933年に廃止されたものだという。およそ100年前に作られたまったく用途の異なる地割りが現在も残っているというのが楽しい。楽しいよね。楽しいんです。

で、もちろん現地に行ってみた。
行ってみると、たしかにカーブしている!(右上のマップが見ている場所と方向。以下同様)
行ってみると、たしかにカーブしている!(右上のマップが見ている場所と方向。以下同様)
知らなければ「ちょっと魅力的な細く曲がった生活道路だな」ぐらいにしか思わなかっただろうが、これが競馬場の跡だと思うと得も言われぬ感動がある。なんでしょうね、この感じ。なんでしょうね、って言われても困ると思うけど、なんでしょうね。
逆を向くとこんな。
逆を向くとこんな。
少し進むと、こんな。
少し進むと、こんな。
さらに進とこんな風で…
さらに進とこんな風で…
コーナーを抜けて直線部へ!
コーナーを抜けて直線部へ!
100年経って、微妙にくねくねしているものの、直線コースは健在。
100年経って、微妙にくねくねしているものの、直線コースは健在。
おとずれてみて最初に思ったのは「細い道路だなー」ってことだった。競馬場跡というからもっと広々としたイメージを持っていたのだが。

地図で改めて見てみると、ここはコースではなく、競馬場の外周道路だ。おそらく当時からこれぐらいの幅の道路だったのだろう。
現在も残っている直線部の一番西側まで行って振り返ったところ。かつての競馬場は現在通学路。
現在も残っている直線部の一番西側まで行って振り返ったところ。かつての競馬場は現在通学路。
実際にコースだったのはこれより内側の部分で、現在は住宅街だ。最初の地図をご覧いただければ分かるが、そこには競馬場の面影はどこにもない。

それにしてもおりしも下校時刻で写真を撮りづらいことといったらない。誤解しないでください。人間には興味ないんです。
かつてのコースに建ち並ぶ住宅のなかにしれっとキルギス共和国大使館があった。どうみても普通の家。好感が持てる。
かつてのコースに建ち並ぶ住宅のなかにしれっとキルギス共和国大使館があった。どうみても普通の家。好感が持てる。
このように、目黒の競馬場跡地はその一部がかろうじて形をとどめているだけだが、松江には完璧に残っている事例がある。浜乃木競馬場跡地である。
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いまにも走り出しそうな残りっぷり

場所は松江から南にひとつ行った乃木という駅から500mぐらいのところ。
どうですかこの見事な残りっぷり。
この住宅街の町内会看板が本記事冒頭のこの写真というわけ。
この住宅街の町内会看板が本記事冒頭のこの写真というわけ。
これはすごい。ここまで完全な形で跡が残っている例は日本でもここだけではないだろうか。すばらしい。恐竜の全身の姿の化石を発見したメアリー・アニングの感動はこういうものだっただろうか。
元競馬場に南西からアプローチする道路はすこし広めで独特の雰囲気を残す。ここがメインストリートだったのだろう。
元競馬場に南西からアプローチする道路はすこし広めで独特の雰囲気を残す。ここがメインストリートだったのだろう。
以前「もう間違えない!鳥取と島根」という記事で、西村さん(鳥取出身)とさくらいさん(島根在住)がお互いの県を褒めて謙遜しあっていたが、この浜乃木競馬場跡地があるという一点で、ぼくにとっては島根の方が一歩リードである。

これは馬の気分で一周してみるしかない。
駅からの道路がぶつかる南西の直線部からスタート(左下のマップが見ている場所と方向。以下同様)。
駅からの道路がぶつかる南西の直線部からスタート(左下のマップが見ている場所と方向。以下同様)。
第1コーナーから第2コーナーへ(実際どのように走っていたのかわからないのでここがほんとうに第1、第2かどうかあやしいですが)。
第1コーナーから第2コーナーへ(実際どのように走っていたのかわからないのでここがほんとうに第1、第2かどうかあやしいですが)。
目黒の時もそうだったけど、コーナーを抜けて直線にさしかかる部分が気持ちいい。馬もこういう気分だったのだろうか。
目黒の時もそうだったけど、コーナーを抜けて直線にさしかかる部分が気持ちいい。馬もこういう気分だったのだろうか。
直線部。なんとなく目黒と似てる。気がする。
直線部。なんとなく目黒と似てる。気がする。
第3コーナーへ。
第3コーナーへ。
第4コーナーが終わり、最後の直線へ。ラストスパートだ(実際にはのんびり歩いてます)。
第4コーナーが終わり、最後の直線へ。ラストスパートだ(実際にはのんびり歩いてます)。
これで一周。ゴール。
これで一周。ゴール。
一周ちょうど1km。こうやって歩いてみると、カーブがあり直線があり、というコースの仕組みって競技上よくできてる。カーブでの駆け引き、直線での勝負。まさに馬になった気分だった。

せっかくなので動画にしてみた。
(重ねて申し上げますが、実際どのように走っていたのかわからないので「第○コーナー」という言い方は便宜上のものです)
さて、午年のしめくくりにふさわしいという以外「だからなに?」という雰囲気の記事になっております。いやでもたのしかったんだよこれ。

せっかくなので、なんで楽しいのかちゃんと説明しようと思う。がんばる。
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馬のスピードは住宅街向き

まずぼくが面白いと思うのは、競馬場のスケールだ。

競走馬は2000mを2分ぐらいで走るというから、その速度は時速にすると60kmぐらいだ。速い!

時速60kmというと自動車と同じぐらい。それにしてはこれら競馬場のコースのカーブ部はきつい。日本の道路においては時速60kmに必要なカーブの大きさ(曲率)はR=150mとされているが、一方さきほどの浜乃木競馬場のカーブはおおむねR=90mほどだ。かなりきつい。このカーブを60kmで走り抜けるとは、馬ってすごいな!しかもクロソイド曲線でもない。

目黒の方は外周道路ということもあってもうすこしカーブがゆるい。「くらべ地図」で見るとレインボーブリッジのループよりすこし小さいぐらい

まあ、馬の速度が時速60kmという数字は平均なのでコーナーではもっと減速しているだろうし、昔の競走馬は今よりゆっくりだっただろうけど。ちなみに中山競馬場のカーブは一番内側でR=120mぐらいだ。

なにが言いたいのかというと、昔の競馬場の曲線は、その曲率がちょうど生活道路スケールなので再利用しやすい、つまり残りやすいということだ。しかも敷地は、町ひとつのサイズにちょうどいい。競馬場がもっと大きかったらこういう風には残らなかったと思うのだ。

この「馬のスピードに最適化されたスケールが人間の住宅街におあつらえむきだという偶然」が、ぼくが面白いと思うポイントなのである。ほら、こう言われると面白いでしょ?面白いよね?面白いんです!

競馬場だらけ

しかしながら、目黒や、まして松江のようにその曲線が残っている例は多くない。

現在日本にある競馬場の数は25だ。だが、かつて存在し今はないものは百数十もある

ぼくらがイメージするギャンブルとしての競馬が日本で最初に行われたのは1906年で(それ以前にも横浜競馬場というのがあったが、これは治外法権エリアでの開催)、その時作られたのが現在の東京都大田区池上にあった池上競馬場だそうだ

ちなみにこの池上競馬場がいろいろあって(ここらへんの歴史もとても面白いのでこちらを読んでみてください)、場所を移したのがくだんの目黒競馬場だ。

ともあれ、明治以降競馬ブームというべき盛り上がりがあって、全国にたくさんの競馬場が作られた。しかしその痕跡が残っている例は少ない。もったいない。
数あるかつての競馬場のなかでも特にびっくりなのは、現在の羽田空港の場所にかつて「羽田競馬場」があったこと(iPhone アプリ「東京時層地図」昭和3年-11年より)
数あるかつての競馬場のなかでも特にびっくりなのは、現在の羽田空港の場所にかつて「羽田競馬場」があったこと(iPhone アプリ「東京時層地図」昭和3年-11年より)
当然こういったかつての競馬場跡を調べている人はたくさんいて、たとえばこの「日本の廃競馬場マップ」というページなど素晴らしい。インターネット万歳。

浜乃木競馬場の宅地化の様子

この「住宅街にちょうどいいスケール」は浜乃木競馬場が宅地化されていく様子を見るとよくわかる。
1947年の様子。すでに競馬場としては機能していない。(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号・M524-1/写真番号・39/撮影年月日・1947/11/03(昭22))
1947年の様子。すでに競馬場としては機能していない。(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号・M524-1/写真番号・39/撮影年月日・1947/11/03(昭22))
上の写真は戦後すぐの様子。

この浜乃木競馬場は1929年に完成し、当時「関西随一」と謳われたほどの規模と盛況を誇ったそうだが、太平洋戦争に向かって衰退しわずか6年後の1935年には廃止されてしまった。

戦後は引き揚げ者のための住宅地として再利用されたというから、上の写真はそれらの家屋だろう。おもしろいのは、真ん中は田畑化しているのにコースはずっとのこっていて、それに添うように住宅が建てられている点だ。どこに通じるわけでなくても、一度つくられた「道」はしぶとく残るということか。
11年後の1958年の様子。びっしとコースに沿って建てられている(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・整理番号・CG584YZ/コース番号・P25/写真番号・21/撮影年月日・1958/05/19(昭33)より)
11年後の1958年の様子。びっしとコースに沿って建てられている(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・整理番号・CG584YZ/コース番号・P25/写真番号・21/撮影年月日・1958/05/19(昭33)より)
上の写真は11年後の1958年。見事にコースに沿って住宅が並び、真ん中はいぜん田畑のまま。おもしろい。当時の街並みをぐるりと回って見てみたかった。

やはり一周1kmという距離が住宅地再利用としてそのまま使うのにギリギリのサイズだったのだろう。これ以上大きかったら形は残らなかったのではないか。たぶん中山競馬場ぐらいの大きさになっちゃうと痕跡残らないと思う。

また、真ん中部分に関して言うと、現在の住宅の不規則な建ち方はこの田畑の地割りを受け継いでいる。
コースの中の不規則な路地はあぜ道の名残だ。田畑の所有権もまたしぶとく残る。
さて、目黒の方はどういう経緯だろう。
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目黒における地形による復元圧力

すっかり理屈っぽくなってしまったが、だいじょうぶでしょうか。ぼくの感じている面白さが伝わりますように。

さて、前述したように目黒競馬場ができたのは浜乃木競馬場より20年ほど古く1907年。だが、なくなったのはほぼ同じ1933年だ。

廃止された理由が興味深い。Wikipediaによれば、手狭になったけどもうこれ以上拡張はできなかったことと、周辺が急速に市街地化したため土地利用的に競馬場っていかがなものか、という理由だったらしい。
廃止された3年後1936年の様子(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・整理番号・B8/コース番号・C1/写真番号・21/撮影年月日・1936/06/11(昭11))
廃止された3年後1936年の様子(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・整理番号・B8/コース番号・C1/写真番号・21/撮影年月日・1936/06/11(昭11))
上の写真は廃止後1936年の様子。これが戦後にはこうなる↓
道路の走り方は現在とほぼ同じになっている(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号・M389/写真番号・87/撮影年月日・1947/08/08(昭22))
道路の走り方は現在とほぼ同じになっている(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より・コース番号・M389/写真番号・87/撮影年月日・1947/08/08(昭22))
戦後の時点で、現在と同じように東側のコーナーと南の直線部以外の形は失われている。

浜乃木と違って市街地化が激しい東京だから、というのが大きな理由だろうが、ぼくが注目するのは地形による道の「復元」圧力だ。

どういうことか。それは実際ここを訪れると分かる。ここって、崖の突端にあるのだ。
目黒駅方面・東からコーナー頂点に向かってアプローチすると、そこは急な上り坂。登り切ったところがコーナー部。
目黒駅方面・東からコーナー頂点に向かってアプローチすると、そこは急な上り坂。登り切ったところがコーナー部。
地形図で見ると、こんな。(国土地理院「基盤地図情報数値標高モデル」5mメッシュをSimpleDEMViewerで表示したものをキャプチャ・加筆加工)
地形図で見ると、こんな。(国土地理院「基盤地図情報数値標高モデル」5mメッシュSimpleDEMViewerで表示したものをキャプチャ・加筆加工)
「手狭になったけどこれ以上拡張できない」というのはこれを見るとよく分かる。広げようにもまわりは崖なのだ。

そして注目すべきは真ん中やや西を南北に貫くように走っている谷戸だ。競馬場の形が消えてなくなった西側はこの谷戸を挟んで西半分であり、新しく引かれた地割りはこの地形に沿っている。
現在の道の走り方は、競馬場ができる前の畑と雑木林の地割りと同じだ(iPhone アプリ「東京時層地図」明治9年-19年より)
現在の道の走り方は、競馬場ができる前の畑と雑木林の地割りと同じだ(iPhone アプリ「東京時層地図」明治9年-19年より)
これって、競馬場ができる前の地割りと同じだ。つまり、いかに競馬場のサイズが住宅地におあつらえ向きとはいえ、地形には逆らえないということだ。競馬場利用というタガが外れて、先祖返りしたのだ。

というかむしろこんな複雑な場所によく競馬場作ったな、って感じ。

こうやってみると、くだんの東側のコーナー部分は比較的地形に素直で、だから今日まで保存されたのだなあ、と分かる。
一方、浜乃木競馬場の地形を見てみると、真っ平ら。しかもそのために丘を削ったのではないかという跡まである。
一方、浜乃木競馬場の地形を見てみると、真っ平ら。しかもそのために丘を削ったのではないかという跡まである。
一周したときに気がついたが、言われてみれば、この丘削った疑惑部分はこういう感じに切り立った崖になっていた。
一周したときに気がついたが、言われてみれば、この丘削った疑惑部分はこういう感じに切り立った崖になっていた。
ほんと、最後まで理屈っぽくなっちゃって恐縮だ。過日は古墳の扱いについて記事を書いたが、地形などお天道さまの論理と人間の都合とが交錯して、あるものが残ったり残らなかったりするのが面白い。面白いよね。面白いんですー。

最近毎回書いてる気がするけど、ほんとどうしておっさんになると地形とか古地図が好きになるんでしょう。すっかり加齢臭漂う記事になってしまいましたが、おもしろがってくれるひとがいますように。

ほかの競馬場跡も見てみよう

そういえば小学校の体育館にあった備品の多くに「寄贈:中山競馬場」の文字があった。2年生の時の遠足は競馬場だったし、中学生の時のマラソン大会は競馬場のそばを走るコースだった。まったく競馬に興味がないながら、いろいろなところで縁があった 。そしておっさんになった今、記事まで書いている。奇縁だ。
浜乃木競馬場跡地そばにあった看板。どういう意味だ?と思って調べたら「だんだん」ってこのあたりの方言で「ありがとう」っていう意味なのね。って納得しかけたけど、それにしたってやっぱり微妙にへん。
浜乃木競馬場跡地そばにあった看板。どういう意味だ?と思って調べたら「だんだん」ってこのあたりの方言で「ありがとう」っていう意味なのね。って納得しかけたけど、それにしたってやっぱり微妙にへん。

【告知】12月28日コミケに新作写真集持って行きます!

以前書いた、コミケに参加するために自分で写真集を作ってみたという記事。楽しくてあれ以来毎回何かしら作っては参加しています。そして今年の年末のコミケも!

今回、かなりすてきな写真集ができたので、みなさん、ぜひ。詳しくは→こちら
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