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とくべつ企画  
 
三点倒立おじいさんにインタビュー

 

波の上ビーチのラジオ体操【真冬編】』で予告した通り、三点倒立おじいさんこと山川文康さん(90歳)にお話を伺ってきました。

miooon/DEEokinawa



前回の記事『波の上ビーチのラジオ体操【真冬編】』はこちらから。

山川文康さんおさらい

1.山川さんは波の上ビーチで三点倒立をする満90歳のおじいさん



2.山川さんは波の上ビーチで年中、三点倒立→腹筋→なわとび→ダッシュ→水泳をしている

3.山川さんはナショナルジオグラフィック世界版の表紙になったことがある

これだけでも相当すごすぎるのですが、ここから新情報です。

4.山川さんは泳ぎ終わった後は、懸垂をする


すごい!

5.山川さんは自転車で波の上と安里を往復している


たぶん距離にして5キロぐらい。すごい!!

そして、よくよく聞くと85歳のときには
6.山川さんは世界マスターズ陸上競技選手権大会10種競技で銀メダルも取っている
10種競技ですよ!
すごすぎる!

あと始終時間を気にされていたので聞いてみると、8時から始まるNHKドラマ「カーネーション」を観なきゃならんのだ!朝はとても忙しいんだ!とおっしゃっていました。主人公の糸子が大好きだそうです。
7.山川さんは朝ドラの「カーネーション」に夢中
なんかかわいい!

ということでインタビューに行って参りました。

憩いの家へ

インタビューは那覇市内の憩いの家で聞かせて頂いたのですが、お話を伺う前に憩いの家に飾ってある山川さんの作品を見せていただきました。

石の作品

書道

どれもちょっとした趣味の域を遥かに超える作品の数々。 これだけでも山川さんの生き方を代弁しているような気がします。

お話は戦争の頃からはじまります。

戦争のこと

自分はもとは名護生まれで高校から那覇に来たんだけど、在学中だった昭和16年12月8日。 昭和16年12月8日は何の日か知ってるか?

(えっと、たしか真珠湾攻撃のあった日ですよね?)

そうそう!
その日に私は徴兵検査を受けた。
全国の徴兵延期していた連中もみんな。
学生も全国一斉にみんな。

そう第一次学徒出陣。
第一次。
真珠湾攻撃の日に私らの徴兵検査はあったんだ。

そして本当は翌年の3月に卒業予定だったけど繰り上げ卒業して、1月に入隊。
ほとんどの全国の生徒が一斉に入隊したよ。

それから最初は満州に行って。満州は零下50度ぐらいだったよ。

私は大東亜戦争は逃げて歩いたようなもんで。
満州からチチハルに行って新しい部隊を編成した。
そこで入隊した少年兵を教育して朝鮮釜山まで行ったんだけど、釜山で大本営の命令で部隊は解散。
ただし将校だけ現地に残れと言われた。

(そのとき山川さんは将校だったそうです)

連帯では将校は私ひとりだったから一人で上海から来た船に乗せられて。
どこへ行くかはわからん。
いろんな噂はあったけど、どこ行くかはさっぱりわからんかった。
そのときは24歳ぐらいだった。
あー、どこかなー、って思っていたら慶良間に着いた。
慶良間に着いたときは、わたしはここは私のふるさとだから上陸したかった。
でも降りたら死んでいたんだね。

(慶良諸島はその後、激しい爆撃を受け壮絶な戦場となります)

慶良間に一泊停泊して着いたのが宮古島。
宮古島は仮上陸だと思っていたけどそれから終戦までいたんだよ。
宮古島までも大きな空襲はあったよ。500名以上亡くなっているはず。

満州にいたうちの本隊はフィリピンで全滅したと聞いた。
後でわかったんだね。わたしは…。
満州に残っていたらソ連の捕虜になりよったしね。

戦争が終わったとき

私は戦争に負けたってことを聞いて、終戦のラジオなんかは当然宮古島では通じないんだよね。 だから後で聞いたんだけど、そうだね。

すべてが終わった。

中国語で「白完了」というんだけどね。 すべては終わった、と思った。

だからワシは毛という毛はすべて剃った! 髪の毛から上から下まで真っ裸になって。 なんか知らんけど白紙に戻ろうと思って。ははは。

戦友のこと

それで宮古島で結婚して。
結婚したときに連隊長から真っ白な馬をもらったんだ。
「日本軍は宮古島の住民には大変お世話になった。この馬と一緒にご恩返ししてくれんか」と言われて。

わし乗馬は満州で訓練受けてたし、大好きで。
どんな暴れ馬でも自信があったから頂いて。
私は麦畑、芋畑ももらったから馬耕を教えて、そりゃもう上手かったよ。

満州では、ただ一人沖縄出身の戦友がいた。
私はその時はもう帰れないと思っていたから
「お前が沖縄に帰ったら爪と髪をうちの親父に渡してくれ」
と、そいつに爪と髪を預けていたんだ。
でも自分は帰って来て結婚までできた。

あいつはソ連に行って、それから一番最後に帰ってきよったよ。

再開したときは「貴様生きていたか!」と互いに。
あれからずっと兄弟以上の付き合いをしたよ。
去年かな、亡くなったけどね。
剣道8段ですごい男だったよ。

戦後復興

戦後は最初は民政府にいたけど、軍政府に入って沖縄中の食料管理をしていた。 わしは事務局長で3年間はパリパリやりよった。

(バリバリbaribariではなくパリパリparipariという表現がステキです)

それから製糖会社の支配人をやった。
そこでは六法全書を見ながら株式会社を作ったよ。
終戦後の沖縄の株式会社第一号だね。

「大東糖業株式会社」っていってね。
大東島にまだあるよ。

その後は銀行に入って銀行管理もしたり。

銀行管理わかるか?
よその会社の社長の印鑑もこっちが持ってるんだよ。
社長も好き勝手にはできないんだよ。

(ここでは書けませんが県内の有名老舗企業がズラズラ)も危ない頃を私がやってたんだよ。 ははは。

普通の銀行員は事業をやってないからわからんわけさ。
でも私は(製糖工場の)経験があったから。

いろんな経験をしてね、ためになりましたよ。

みなさんから頂いた質問を聞いてみました。

−質問その1:子孫に残したい沖縄の言い伝えはありますか?

「命どぅ宝」だね。

命とはなんだと思う?

命は心と同じものだと思う。
心理学の宮城音春先生の言葉なんだけど「心とは喜んだり、悲しんだり、動かしたりという精神作用だ」という言葉がある。 命はどこにあるというものじゃないでしょ。
だから命は「いま生きている、考えている、行動している」そのものが命なんじゃないかと思う。

あのね、健康というのはね、
健体(けんたい)、康心(こうしん)と書くでしょ。
「健全なる体、康らかな心」あわせて健康という。

体が良くても殺人犯は健康じゃないでしょ。
人を憎んだり、恨んだり、怒った状態は康らかな心とは言えないよね。
体が元気でも心が康らかじゃないと健康とは言えない。

我々は生かされているんだ。

食事も農家の人が作ったもの、魚だって漁業の人が獲ってきてくれたものを頂いているわけでしょ 空気だって水だって感謝しないといけないと言うでしょ。

でも忘れてはいけないのが、私はね、我々の身体は60兆の細胞から成っているといつも思っている。 細胞のおかげで生かされているんだと感謝している。
みんな外のものには感謝するけど、内のものを忘れがちなんだ。 だから私は毎朝、足の先から頭の先までひとつづつ感謝の言葉を言っているんだよ。

「足の裏ありがとう、ふとももありがとう、腰ありがとう、手ありがとう…」

(山川さんは30mダッシュが終わった後、浜辺に仰向けになり腹式呼吸で息を整えながら、体の隅々にまで感謝されていました。声を出しながら感謝することが大切だそうです。これで疲れもすべてなくなるそうです。)

私はね、感謝の心。
外部だけでなく、体内の命をもった細胞にも感謝すること。
これを強調したいよね。

宝というのはどこにあるものではないけどね、みんな連合体。 細胞もみんな集まって生かされているんだよ。

だから戦争も本当は沖縄で大きな戦争があったんだから、平和がほしいね。
一番の希望はそれだね。 これからはもう戦争、銃剣をなくして、平和を考えないといけない。 そんな方向でいってもらえればいつか叶うんじゃないか。 丸反対の方向にはいかないだろう。

−質問そ(いえ、全般的に…)の2 : おばあとネーネーはどっちが好きですか?

おばあってわしのワイフのこと?

(いえ、全般的に…)

あはは
どっちもさー!

さて、そろそろ時間だね。

1時間お話を聞かせていただいて

山川さんは来たときと同じように、シャンとした背筋でスタスタと帰って行かれました。 一度だけ振り返って「また遊びにおいでな」と笑って。 おじいさんと呼ぶのがはばかれるぐらいカッコいい人生の先輩。 明日も明後日も波の上ビーチでパリパリparipariしておられるはずです。


貴重なお話をありがとうございました!

ということで、たまーにグッとくる記事を出してしまうDEEokinawaがお届けしました。



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