人形の町に行く
「桃屋のラー油とウチのは全然違うんだから!」という店主のこだわりは私が求めていないベクトルであったため試食だけでとどめ、次の朝顔市に向かった。
ラー油は美味しかったが、私が求めるラー油は桃屋のラー油のようなラー油であった。
私が次に向かっているのは岩槻で行われる「岩槻朝顔市」である。埼玉によく行く私は「埼玉は気を抜けばのどかになる」という格言を持っている。
ここでもむにゃむにゃと桃屋のラー油の夢を見ていたらのどかになっていた。
幻は今ここに
岩槻は人形の街である。私はそう断言できる。駅前の地図にそう書いてあったので間違いないだろうし、歩けば人形屋が目に入ったからだ。
私にも年端も行かない子供でもいれば、雛人形や五月人形などを買い求めたいが如何せん独り身なために人形には縁がない。私が求めるのは麗しき朝顔である。
駅から歩いて数分の愛宕神社境内にて私が求めている朝顔市は行われる。
風流の権化である朝顔市はいくら見ても飽きると言うことはなく、本日5件目ではあるが胸は高鳴り、その鼓動は佐賀に住む父にも伝わるのではないかと思われた。
「!」を朝顔の後ろに付けてはみたがその寂しさは失恋直後の乙女を思わせる。私もそんな乙女が流すであろう清く美しい涙を流さずにはいられなかった。終わっていたのだ、朝顔市が。
人気の朝顔市だった
ここの朝顔市は、9時に始まり例年正午には売り切れてしまうそうである。今年も例外なく売り切れてしまい終了となっていた。
一年で3時間だけの幻の朝顔市。私の入浴時間より短いでは無いか。いや、私はそんなに風呂には入らないか。第一ユニットバスにそんな長時間は入れない。
私はたらふくの朝顔を見るうちにある事実に気が付いた。朝顔とはみんなの心に咲く花なのではないだろうかと。だから、朝顔市が終わっていたとてそれは別に気にすることではないのではないか…
と強がってはみたが岩槻まで着て朝顔市を見れないのは些か残念であったと言わざるえない。
私はこの出来事で、より朝顔を欲することになった。今までは行けば見れたのに急に見れないのだ。
僅かには見れたが朝顔市の魅力はやはり量である。朝顔素人の私は量を必要としているのだ。グラム1000円の肉を少量ではなくグラム98円の肉を大量がいいのだ。ベストはグラム1000円の肉を大量である。
巣鴨へ行く
空振りに終わった岩槻を後しに、本日の最終目的地である巣鴨を目指すことにした。いつまでもくよくよしていてはいられない。
くよくよしていいのは、触れれば壊れてしまうような繊細なガラス細工のような女性だけであり、くねくねしていいのは軟体動物だけである。私はどちらかと言えば、軟体動物に近い。
巣鴨は人だらけだった。巣鴨は「おばちゃんの原宿」という別名を持つのは普段どちらかと言えば室内での修行に専念する私も知っていたが、室内での修行を専念するあまり実際にその原宿に足を運んだことはなかった。インドア派ということだ。
とげ抜き地蔵尊の朝顔
選挙演説が行われているために、多くの人が立ち止まり大変な混雑を見せていた。しかし、私は日本の未来よりも朝顔の方に興味がある。
またおばあちゃんの多さにはため息がこぼれる。本当におばあちゃんだらけである。おばあちゃん、おばあちゃん、若者、おばあちゃん、の並びを見るとオセロ方式で若者もおばあちゃんになってもおかしくないほどのおばあちゃんである。
僅かだが若い手をつないだカップルともすれ違った。このカップルは40年後ここを二人で歩くのだろうか。
そんなことを私が心配しても仕方がないので、私も負けずに、私の左の手と私の右の手をしっかりとつかみ合い朝顔市へと歩みを進めた。
朝顔は素晴らしい
どのような女性が好きかと聞かれれば、ペットボトルを凍らせてデートの持って来てしまうような質素な女性と私は答える。それがスポーツドリンクならば彼女はスポーティーな女性であり、お茶ならば古風な女性である。私はそのどちらをも愛する自信がある。
朝顔はそれに通じる物がある。決して派手ではないが、心をグッと掴む風流(ペットボトルを凍らす)という私の好みを抑えている。ちなみに私の家には冷凍庫はない。
ここは歩行者天国になっており、いろいろな出店が出ている。その一つとして朝顔が売られている。
買い求めるおばあさんは「安くしてよ」「そんなお金はないよ」と値段交渉をしていた。他の朝顔市では見られなかった特長だ。
さて一日で6件の朝顔市を見た。どれもそれぞれに趣があり、どれもがみな風流だった。十分に朝顔を堪能できたと思う。
しかしながら帰りの巣鴨駅でさらなる朝顔市のポスターを見た。一目ぼれとはこのように起こるのだろう。私はその朝顔市に後日向かうことにした。